もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

出来ちゃった!

2008年10月31日 | 家庭菜園
 昔 昔 そのむかし、もろこしの国に「二十四孝」といって、24人の親孝行がいたそうナ。
 そのうちの一人で孟宗は年老いた病床の母親が真冬に筍を食べたいと言いうので、この時期に筍は無理だろうと思いつつも、天に頼って竹林に出て見ると、にわかに雪の大地がひらけて筍が出て来たそうな。
 孟宗は大喜びで筍を採って帰り、母親に食べさせたところ母親の病は回復して長生きをした。
 これも親孝行の徳によって天のなせるわざであった。
 孟宗はもっと母親に食べさせようとしたところ、母親は「モウソウは食えぬ」と言ったという話を落語で聞いただけで、私は原書を読んだわけではないから、内容に責任は持てない。

ところで、私の菜園でも、普通なら11月になってタネを蒔き、4~5月になって収穫する絹さや豌豆が今実をつけているが、私は親孝行などしたことはないから、これは天の為せるわざなどではない。
 無理矢理こじつければ、真冬の筍をゲットしたのは 孟宗、10月に絹さやを収穫したのは孟さんと名前にちょっとだけ共通点があった。
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  今から15~6年前、まだプランターで野菜を育てていて、まったく家庭菜園の初心者の頃だが、確か12月に絹さや豌豆の収穫をした記憶がある。

 あの絹さやは何という品種だったのだろう?
 昔の記憶を頼りに、昨年は<極早生>という表記のある絹さや豌豆のタネを9月に蒔いてみたが、収穫出来たのはやはり11月にタネを蒔いた他のキヌサヤと同じ4月になってからだった。

 失敗に懲りず、今年も再度のチャレンジ!
<美笹豌豆>という品種名を通販のカタログで見つけた。
 タネの説明ではやはり蒔きどきは10月中旬から11月下旬、収穫は4月から5月となっていて、どこにも年内に収穫出来るとは書いてない。

 しかし、これだこれだ、昔12月に収穫したキヌサヤの品種は確かこれだった(ような気がするが100パーセントの自信はない)。
 ものは試し・・・と、このタネを取り寄せ9月上旬に蒔いてみた。
Wちょっとピンぼけの写真だが、10月30日に絹さやはもう実をつけている。

W_2夏の名残りのトマトと本来なら4月に収穫する絹さや豌豆を同じ日に収穫出来た。

 出来ちゃった!
 本来のタネ蒔きの時期に美笹豌豆はもう収穫が始まってしまった。
 10月上旬には白い花を咲かせ、まだまだ収穫量は少ないがタネ蒔きから2ヶ月ほどでキヌサヤの収穫が出来てしまった。



10月のトマト

2008年10月26日 | 家庭菜園
 ゴールデンウィークの頃に苗を購入して植えたトマトはもう終わってしまったが、6月に脇芽を挿し木して増やした中玉トマトはまだ今を盛りと毎日赤い実をつけてくれている。
W途中から整枝もしないまま放任状態で、からみ合ってどの樹の枝かもわからなくなってしまったがまだまだ元気なトマト。
 品種はレッドオーレとルビーノ



 気温が下がった分だけ色づくまでに日数がかかるようになって皮は少し硬くなって来たが、甘味は増してきた。

 真っ赤に熟したトマトを摘んで農作業で乾いたのどを潤す。
 ピュッと飛び出すゼリーが服にかからぬように、首をいっぱい伸ばしてあごを突き出しトマトを頬張る。
 
 中国食品のトラブルを聞くにつけ、自分の畑で採れる野菜の安心、安全はこれに勝るものはなく、採ったその日のうちに口に出来る新鮮さは家庭菜園ならではのことで、形やサイズこそまちまちだが、味はどんな高級スーパーの品物にもひけを取ることはない。
 何てたって鮮度が違う!

 また、仕事だけでは運動不足になりがちの私の生活に、家庭菜園での適度な筋肉労働を取り入れることができ、また仕事上のストレスを解消してくれるなどなど、食に関する安全以外に身体と精神的な健康面のプラスもかなり大きい。

 東京の日当たりの悪い部屋で身体を動かすこともなく終日イラストを描いていたら、私の寿命は尽きていないまでも、この歳まで健康が保てていたとは思えない。

 今日もあごを突き出して真っ赤なトマトをほお張りながら、澄んだ秋空の下でブロッコリーについた青虫を捕り、大根を間引き、花苗を植える。



稲わら

2008年10月20日 | 家庭菜園
 
 10月になってあちこちの田んぼで稲刈りが始まった。
 コンバインが動いている田んぼを目指して自転車を走らせて声をかける。
「すみません、わらを少しいただけませんか?」
 
 おう、持っていきなヨ。
 請負で稲刈りをしているところ、すでに田んぼごと稲わらを売る契約をしているところなど一部の例外を除いて、たいていのところでは気軽に譲ってもらえる。
自転車で声をかけるから、たいした量でもあるまいと、気軽に譲ってもらえるが 軽トラで行ってわらを譲って欲しいなどと言えば、どれくらい持って行かれるかと警戒をされてしまうだろう。

 この時期は毎年こうして自転車で何度も田んぼと菜園の間を往復して、あちこちの田んぼから稲わらをもらって菜園に運び込む。

 一部のわらは11月に世田谷から長芋の収穫体験にやって来るボーイスカウトの子どもたちの焼き芋作りの焚き火となり、出来た灰はカリ肥料として利用する。
 また稲わらは冬越しの野菜や花の風避け、敷きわらにもなり、秋にはかかし作りの材料にもなる。
 最後は堆肥となって余すところもなく利用するために、この10月のうちにわらを集めて溜込むのに忙しい。
Photo
W2 金魚草、ゴテチアなどの栽培予定地の北側に作った冊に稲わらを吊るして風避けにする。
 品の良い濃いエンジ色をした今年の新色のコスモスと稲わらの取り合わせは貴婦人と野良者といったミスマッチの趣もあるが、なかなか風情のある風景でもある。





私の過去が・・・

2008年10月16日 | 写真
 名古屋で出て来た私の過去・・・と言っても昔の悪行が露見したと言う話ではない。
 先日、姉の葬儀で名古屋まで行って来たが、姉の家で甥っ子から昔むかしのアルバムを見せられて、そこに写っている白黒写真の人物たちの鑑定を求められた。

 その中に私たち姉弟の父親の写真があった、つまり甥っ子にとっては母方の祖父にあたる人だが、姉がまだ中学生の頃に45才で亡くなっていて、甥っ子たちは知る由もない。
 さらにその母親(私や姉にとっての祖母)においておや。

 そして姉自身の幼児期の写真もたくさんあったが、甥たちにはそれが自分達の母親の幼児期の写真と判別がつかなかったようだった。
 姉の写真は私が自分で持っている幼児期の写真より多くあり、どこの家でも最初の子どもの写真は多いが、2番目からの写真は少なくなるという様子は今も昔も変わりがなかったようだ。

 そして、4人兄弟のうち昭和20年の終戦の年に生まれた一番下の妹の幼児期の写真は皆無だった。
 それは子どもの写真を写す興味が薄れたのではなく、父親が終戦の頃まで持っていた蛇腹式のカメラが私たちの食べ物に変わってしまったことが原因なのだろう。
 仮にカメラが残っていても、フィルムなど手に入らなかった時代でもあった。

 そんな写真の中に私の幼児期の写真もあって、端が破れていたがもらってきた。
Photo
これが名古屋で見つけて来た私の過去です。


 顔つきはかなり変わってしまったが、頭髪の状態は今も同じだ。

 未練がましいぞ! 幼児期のまだ生え揃っていない頭髪と、老年期の抜けきる寸前の頭髪とでは似ていても同じではないことを悟れ・・・どこかで誰かの声が聞こえた。



大使館巡り

2008年10月10日 | 工作
 東京に行くと各県のアンテナショップ巡りをしてくるという話を以前に書いたが、昨日は渋谷で仕事の打ち合わせを終えた後、虎の門にあるアエロフロートと中華航空、さらに永田町のメキシコ大使館、その隣のレバノン大使館、東横線の自由が丘にあるケニア大使館と13000歩を歩いて(徘徊ではない)帰って来た。

 今回は世界の物産を買いに出かけたのではなく(大使館ではお土産、物産の類いは売っていません、念のため)、いろいろな国の文字で書かれた新聞が欲しくて古新聞をもらいに歩いて来たのである。

 実は、各国の大使館に行く前に一応電話で確認をしたのだが、多くの大使館では現在はインターネットで読めるから、わざわざ母国から新聞を取り寄せていないと言うことが分かっていたから、エアーラインなら・・・と思ってまず2社を尋ねて古新聞をゲットしてきた。

 電話で連絡のつかなかった大使館には東京に出るついでだからと立ち寄ってみた。
 やはり大使館として取り寄せてはいなかったが、スタッフが個人的に所持していたものを譲ってもらったり、後日送ってあげましょうという親切にも巡り合えて、電話だけでなく足で稼いで予想以上の成果をあげることが出来た。

 ところで、集めた古新聞をどうするのかというと、前々回に「大人の工作ランド」構想について少し書いたが、その素材を集めに歩いてきたのである。
 実際に造り始めるのはまだ先のことになるが、ついでのあるときに準備だけをしておこうと大使館を歩いて来たのである。
W これが「大人の工作ランド」に掲載予定のひとつ「魚のレリーフ」の見本。
 これはたまたまエジプト旅行をして来た知人からもらった新聞で5年ほど前に作ったもので、このシリーズに使用するいろいろな外国の新聞を探していた。