日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「みんな、大変なんだなあ。」これは、人ではなくて、「国」が、です。

2020-07-01 07:55:31 | 日本語学校
曇り。

昨日の予報では…今朝、雨が降っているはずだったのです。それが、…降っていない。ベランダも、濡れていないどころか、乾いているところがチラホラ…。お天気の予報も、千葉県で見るよりも、東京で見て、だいたい間違いがないはず…で、テレビをつけて、東京を見てみます。やはり、降っていない。いつの間に変わったのでしょう。ま、いいかと、自転車で、出てきました。

けれども、降るのでしょうね、時間が経つと。雲が早く流れています。上空はかなり風が強いのでしょう。

だいたい、「雲を掴むような話」と言うけれども、雲は掴めないし、雲を走らす風も掴めない。風は雲を走らせて初めて、それと感じられる存在で、それだけであったら、空気ですから、見えはしない。汚染されていれば別でしょうけれども。

樹の葉を揺らす、煙をたなびかせる、顔に当たる…で、風の存在を知る。

何だか、とりとめのないことを考えているようです。

人の感覚など、制限をつけることはできないでしょうし、人の心も「ここからここまで」なんて、線引きすることもできないでしょう。それなのに、人は、決めたがる。支配したがる。相手を自分の判る範囲に置きたがる。わからないことを言われたり、されたりするのが嫌なのでしょうね。

けれども、本来、人は、わからないことをするから生き物であって、それ以外の何ものでもないのです。「ネコ」や「イヌ」が、わけのわからないことをすると、かわいいと褒めたり、チヤホヤする人が、どうして相手が同族であると嫌がるのでしょうね。

もちろん、人は「孤」では生きていけませんから、「社会」を作ります。その「社会」に生まれながらに存在していたり、あるいは後から加わろうとするなら、その「社会」の決め事は守らなければならないでしょう。嫌なら出ていけばいいのですから(ただ、今は、それが難しい国がたくさんあります)。

けれど、一般的にいえば、普通であるならば(これも難しい。何を以て「普通」と為すか)、「(その社会にいる)人を傷つけない」、これが約束事。人を傷つけたがるような人にとってみれば、それは余計なことでしょうけれども、大半の人にとっては、「平穏無事」というのが一番でしょうから、それを受け入れる。いわゆる「日常」です。

それに、もし、そこで「共同作業」をすることになったら、「時間を守る」とか、「順番を守る」とか、「必要な道具を揃える」といったことも、決められていくでしょう。

そういう風にして、年月が経っていくと、社会が、いつの間にか「そうあらねばならぬ」という、ガチガチの組織めいたものになっていくかもしれません。

「約束事」が、「制約」になり、「法律」になって、人を苦しめ出すのです。大らかに、「人が嫌がることをしてはだめ」と言われ、「そうだなあ。そんなことしてはだめだよなあ」と思い、育ってきた人までが、「何かすると捉まえるぞ」とか、「死刑だぞ」とか脅されるようになってしまうのです。

人は、確かに自分で自分を律するのは難しい、疲れる。子供のときからそう学んできて、半ば習慣になっていようとも、疲れる時がある。そういう普通の人は別にも、人が嫌がることをして喜んだり、優越感に浸ってしまうような、人としてあるまじき事をする人がいるから仕方がない…。本来なら、そんなことまで法律で「してはだめですよ。そんなことをすれば、罰金ですよ」と刑罰を入れなければならないなんて。

法律というのは、一つ入れる毎に、ますます増えていきます。煩雑になっていく。時代が変わっていく毎に、新しい法律を作らねばならなくなる。雁字搦めになっていくような気がする。もちろん、普通の人は法律とは無縁です。警察と関係が生じるのは、落とし物をした時くらいのもの。

ずっと同じ場所に住み、そこしか知らない人たちは、自分たちに輪っかがはめられているのに気がつかない。ゆっくりとごく自然に行われているわけですから、空気みたいなもの。馴れてしまうのです。

ところが、そこに風穴が開けられることもあるのです。それが同じ価値観や審美観を持っていない人たち、つまり「客人(まれびと)」の存在です。人は、そういう人たちを畏れながらも、その集団に問題が生じたり、社会的構造が錆び付いたりしていたときには、この「まれびと」を歓迎します。終われば、「よそ者」として追い出したり、危害を加えたりすることもあるかもしれませんが、年月が経つうちに、その影響の大きさに気づくでしょう。そこに「存在」しただけでも、おおごとなのですから。

それなのに、その「まれびと」の集団の大国であるはずのアメリカでも、そういう人たちを否定しようとしている。もともと、そういう存在を許さぬような中国と、同じようなことをしている。

中国は、何かが怖いのでしょうね。偉大な指導者がいた時には、彼等の行動は「自在」に見えました。「自由自在」というよりも、「変幻自在」と言った方がいいほどに。それなのに、今は、自信がないからか、自分が傷つけられたり、利権が失われるのではないかと恐れているからか、やることなすことが、自分の逃げ口を自分で塞いでいるような気がしてならないのです。「非常口」がなくなったら、どうするのでしょう。どんどん世界が狭く薄っぺらになっていくしかないでしょう。その前に、自縄自縛になって、身動きできなくなってしまうかもしれません。

両国とも、大国で、何も恐れる必要などないでしょうに。アメリカにはアメリカの良さも強さもあるし、中国も同じです。問題が、どれほど山積していたとしても、穏便な方法でどうにかできないはずはない。だいたい、どこの国でも、問題は山ほどある。日本だってそう。

一個人に対してよく言われているように、欠点(問題)を、直そうなどとは思わずに、長所(持ち前の素晴らしさ)を伸ばしていく方に力を注いだ方がいいのではないか。それが、袋小路に入ったような「今」から抜け出せる唯一の道ではないか。

だいたい、金持ち喧嘩せずと申します。

日々是好日
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