日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「日の出」。「江戸東京博物館」参観。「一升枡には一升しか入らぬ」。

2010-01-29 08:21:41 | 日本語の授業
 暖かくなりました。昨日は昼前後に小雨が降りましたが、もう雨が降っても寒くはならないのです。季節も「一雨ごとに暖かくなる」という巡りに変わったようです。

 これまで「寒い。寒い」と「気温」にばかり気をとられていましたが、「日の出」も早くなったようです。今朝も、来てから直ぐに、灯油が空っぽになっているのに気づき、本来ならば、う~んというところだったのです。が、今朝は違いました。もう人工の明るさなど必要なかったのです。外の明かるさだけで、充分事足りました。ほんの少し前までは、電気なしには何もできなかったのに。

 さて、今日は「卒業生クラス」だけで、午前中、「江戸東京博物館」へ行って参ります。昨日「玉三郎」と「助六」を見せたのですが、どうでしょう。華やかなりし「元禄」だけでも、記憶に留めておいてくれたでしょうか。

 しかしながら、まずは、何と言いましても「日本橋」です。カゴに乗ったり、馬車に乗ったり、人力車に乗ったり、また、纏を担いだり、千両箱で盗人の気分になったりと、そこは適当に遊んでもらうつもりでいますが。

 不思議なもので、(このクラスでは)この一年半近く、口癖のように、あるいは、折を見ては言い続けてきたことが、決して(教師側の)徒労にはなっていないのです。当たり前と言えばそうでしょうが、同じように言い続けてきても、馬耳東風と聞き流されてきた時代が長かったので、(ある意味では)今、非常に心が和んでいるのです。

 私自身、「努力」という言葉は、あまり好きではありませんし、使いたくもありません。本心を言えば、「努力」をしたり、「勉強」したりするのも嫌です。人に強いたくもありません。その気になっている人に、その人の望みが叶うように、手助けをするくらいが、せいぜい教師の出来ることだと思っています。皆が何事によらず、好奇心を持って、そのまま進んでいってくれるのが一番好もしいことなのです。

 例えば、「初級」のうちであれば、書いてみたり、共に声に出して繰り返し言っているうちに、日本語が耳に馴染み、自然に覚えていけるようになることが望ましいし、皆でいる時も、遊んでいるような感覚を味わってもらえていれば、それが一番いいことなのです。職業柄、「努力」や「勉強」という言葉を使わざるを得ない時も、あるにはあるのですが、いつもどこかしら後ろめたさを感じてしまっています。

 ところで「卒業生クラス」です。いつもは、カリキュラムに余裕がないので、草花の名前などを教えても、そう繰り返してやるというわけにもいきません。その前の段階で、骨身を削っているのですから。ところが、最近、この「卒業生クラス」の学生達と話していた時のことなのですが、(覚えていないのは覚えていないのです。けれども)草花の名前に抵抗がなくなってきているのを感じました。

 私が口に出しても、ごく自然にそれを聞き、写真を見、春の花だというと、春を待つような雰囲気になるのです。この人達も、最初の頃は、草や花の名前が何なんだというふうでしたのに、それが、だんだんこのような「あっ。ああ、あれ」という表情になってきたのです。私だって草花や鳥、虫たちの名前に詳しいわけではありません。しかしながら、やはり、ある程度は知っておかなければならない部分もあるのです、この国に居る以上。

 こういうことは、折につけ、(たとえ無駄になろうと、)繰り返していくしかないのです。この地にいる人も、その人々が築き上げた伝統も、そしてこの地の人々の感性も、この風土に育まれたものなのですから。

 さて、話は変わります。
最近おかしな諺が耳の中をスッと通り抜けては、また戻ってくるのです。
「一升枡には一升しか入らぬ」…、
「人の心は九分十分」…、
「人は誰でも自分の荷が一番重いと言う」…。

 あるときは、「人は努力次第で、一合枡に二合入れられるようになる」と思ったりするくせに…。どうもいけません。(こちらが学生に対して)手加減をしてやらぬと、却って(彼らが)つぶれてしまうという事態にもなりかねないのです。

 確かに「一升枡には一升しか入らぬ」なのです。

 勉強を始めた頃には、一日単語を10個くらいしか覚えられなかった人も、毎日コツコツと弛まぬ努力を続けているうちに、一日に50くらいの熟語が覚えられるようになってきます。ですから、ある程度は「努力で補える」のです。ただ、「ある程度は」なのです、これも。

 かといって、それで、その人が「劣っている」とか、「頭が悪い」とかいうのではありません。人によって得手不得手がありますから。計画を立て、仕切るのに秀でている人もいれば、多くの人とコミュニケーションをとるのが巧みな人もいます。理解力に優れた人もいれば、実行力が図抜けた人もいます。皆それぞれであるし、人の考えも、多分「九分十分」で、大差はないのです。

 ただ、「ズル」はいけません。皆が同じ条件で同じように真摯な態度でもってやって、初めて「なんぼのもの」なのですから。自分が出来ないから、他の人のを見たり、他の人に書いてもらったりしたら、それはルール違反で、評価の対象にすらなりません。

 それに、「人は誰でも自分の荷が一番重いと言う」のは本当です。自分を見てもそうです。自分が一番大変であるような気がしています。皆そうでしょうが。

 もう少し、自分の時間を取れたらいいと思いますし、どうにかして家にいる時くらいは、仕事に煩わされたくないと思います。適当にしておいても、そこそこのことはできるのにと、自分で自分が恨めしく思われる時もあります。授業の膨らみを持たせるために自分の時間が使われてしまっているような気がすることも多いのです。

 けれども、翻って考えますと、そのこと一つ一つは決して自分の嫌いなことではないのです。嫌なことをやっているわけではないのです。それを仕事と考えるから、自分の時間をとられているような気がするだけで、趣味だと思えば大変でも何でもないことなのです。

 ただ、人は弱いものですから、時には、全く関係のない時間も持ちたくなります。新聞の切り抜き、DVDの整理、何もかも放って、どこかへ行きたくなってきます。とは言いながら、どこかへ行ってしまったら、(仕事は決して減りませんから)倍も貯まってしまいます。

 やることを自分で考えることが出来なかった時期が懐かしい。その頃は仕事に「終わり」がありました。「キリがない」というのは、幸せとも言えましょうが、その渦中にある間は、苦しいものです。

日々是好日
コメント
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