日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「暖かい朝」。「『風土』の違いによる『自然の捉え方』、様々」。

2010-01-21 07:47:41 | 日本語の授業
 今朝も暖かです。朝のお天気お姉さんが「現在の温度、15.4度(都内)。昼には18度くらいになるでしょう。これは5月頃の気温。ただし、夜にはグッと下がるようですから、気をつけてください」と言っていました。

 そうなのか。暖かいのか。けれども、帰りには、グッと寒くなるのかと、結局いつも通りの恰好をして外に出てきました。出てみると、地面がわずかに濡れています。どうも、早朝、雨が降ったらしい。

 中国に留学していた頃のことです。ある春の日、友人と世間話をしていて、話が前夜の雨に及んだことがあります。友人は、急に「春雨貴如油」と言いました。確かにその言葉は何かで読んでおり、文字にしてみれば、「ああ知っていた」という類の諺でしかなかったのですが、突然、耳で聞いても、直ぐにそれとは反応できなかったのです。

 どうも、日本人にとって、「春の雨」というのは、「花冷え」とか、「風情」とかを感じさせるものでしかなく、「ありがたい」とか、「生き返るようだ」とかいう言葉には結びつかないようなのです。日本の冬は(日本人から見れば)乾燥しているとはいえ、当時の北京に比べれば、大したことはないのです。「春雨」は、草木の生育を助けるものではありますが、それよりも、雨に洗われた春の草木の美しさを愛でる方に、目は行くのです。

 「春雨は、ありがたいものだ」。また、その「ありがたさ」を表すのに「油」を以てなすというのも、どこかしら判らない理屈なのです。こういうものは、「食文化」や「その風土」を知らなければ、いったいに「どうして???」なので、終わってしまうものなのです。だから、異なった風土から来た人間には、覚えるのが難しいとも言える部分なのです。そんなこと、思っていませんもの。

 学生達を見ていてもそうです。日本人にとって、大切であったり、心地良かったりすることが、反対に厭うべきものになったりするのです。

 先日、面接の練習をしていた時のことです。中国の東北地方から来た学生に、
「先生、雨は嫌い。日本はどうして、こんなに雨が降るんですか」
と、絡まれてしまいました。
「ああ、東北地方には『梅雨』がないからね。毎日、雨が降り続き、ジトジトとしているのが嫌なのかな」
と、軽くいなそうとすると、
「違います。『梅雨』だけを言っているのじゃありません。いつもです。秋も、冬も、雨ばかり」
「(…そんなに雨が降っているとも思えないのだけれど…)」
すると、もう一人の、これは南から来た学生です。
「日本の雨の量って、普通じゃない?私はそんなにいつも降っているとは思わないけど…」
例の学生、
「雨は嫌い、嫌い。ホントにイヤです。日本は雨が降るからイヤ」

 何日か前、雨が降ったのに大喜び。「犬は 庭 駆け回る」ならぬ、「道 駆け回る」とばかりに、はしゃぎすぎ、風邪を引いてしまった「タイ」の中学生さんの話を書きましたが、人間という者は、生い育った風土の影響をどこへ行っても受けてしまうようです。

 私なぞは、「梅雨時」の雨も、「秋の長雨」も、どちらも大好きです。洗濯物が乾かないとか、腐りやすいとか、困る点も少なくはありませんが、シトシトと降り続く雨を見つめているのは、いいものです。「梅雨時」であれば、春から夏の盛りへと、草木が装いを更える頃ですから、その瑞々しさといったらありませんし、また、秋の頃であれば、「物憂さ」と「もの悲しさ」とが一つになり、「詩の世界」へと誘われるまたとない時間となります。

 雨の日は、このように、部屋の中でジッとしていてもいいのですが、誘われるように、外へフラフラと出てしまってもいいのです。「発見」が必ずあるものですから。

 しかも、この年になりますと、それぞれの時期に、それぞれの記憶が溜められていますから、より味わい深いものになっています。で、「私は、雨が好きだけど…」と遠慮がちに言ってみると、猪武者が「えー。私は嫌いです」ときっぱりと断定してみせます。

 こうなると始末に負えません。で、話題転換。話を別の方へ振っていきます。
「さて、最近のニュースは。一番、印象的だったことは何ですか。それはなぜですか」と責めていきます。

 問われた方は、もう雨がイヤだとか、雨が好きだとか言っていられません。「う~ん、う~ん」と唸っています。

 「金融危機」や「住宅バブル崩壊」、「ITバブル崩壊」など、グローバル化が進むことによって、その「負の部分」が、大衆の目にも、だんだん見えてくるようになりました。勿論、グローバル化によって起こされるのは、「暗」の部分だけではありません。けれども、ひと頃、「グローバル化によって、世界は変わる。また変えなければならない。時流に乗り遅れるな」と、考えることなしに、ひた走ってきただけに、この「暗」はいっそう深い闇に包まれて見えます。

 何事もバランスなのでしょう。が、現在、このグローバル化というものは、「『明』の面だけではなく、『暗』の面も持っている。しかもそれがかなり大きいウエートを占めている」という認識が、一人歩きを始めたようにも感じられます。悪くすると、極端にそれだけが語られ、また「ブロック経済」などの「内向き」に、大国の政策が流れてしまう畏れがないとも言えますまい。何事もバランスが大切。拠って立つ所はそれぞれあれど、現状認識は、ある程度、共通のものが欲しい。というわけで、有識者の主張が聞きたいのですが。

 ただ、昨今の新聞・テレビで語られるのは、政治ばかりときています。なかなか、ひと頃のように有識者による主張なり意見なりが公表されていません。専門誌にはあると言われても、専門誌なんぞを読むのは、その仕事に就いている人たちだけでしょう。一般大衆にとっては、やはり新聞やテレビが知識の源なのです。時流に押し流されることなく、問題は、バランスをとりながら、定期的に扱って欲しいのです。それを読み捨てるのではなく、教材として使っているところもあるのですから。

日々是好日
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