柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

好対照

2006-08-21 08:34:15 | Weblog
忘れぬ内に先に書きます。今日のNHK22時からビートルズの特集番組です。何だか面白そうです。今残されている日本公演の映像はマネージャーのエプスタインがダメ出ししたもので、演奏自体が粗いものなのですが、それもまた見られるのでしょう。是非ご覧下さい、私も楽しみです。
 いつもこの頃、夏休みが終わろうかという頃、ああ日が短くなったなと感じますね。そしてなんとも寂しいようなもの悲しい感覚。理屈を言えば夏至は7月の上旬にやってきますから、それから一ヶ月半も経てば陽も短くなろうということなんですが、季節感ですね。ああ、夏が終わりゆくという感じ。季節が移りゆくという実感。朝も6時には(当地では)太陽は未だ山の端から顔を出しません。暑い暑い毎日ですが、季節は移ろいゆくわけです。
 高校野球、凄いこと。新聞には51回大会(昭和44年)の三沢ー松山商戦を対比する記事ばかりです。私が中学一年の時のことで、よく覚えています。三沢のピッチャーの太田がアイドルで、大変な人気でした、当地のような田舎の中学でも女子生徒がキャーキャー言うていたのをよく覚えています。ちなみにその3年後、54回大会で、我が柳井高校が夏の甲子園で準優勝しました、私が高校一年、ずっと甲子園に行きました(行かされました)、あの閉会式でのアナウンス「西中国代表山口県立柳井高等学校!」をその場で(甲子園で)聞いて、鳥肌が立ったことをよく覚えています。あれはいい経験でした・・いや、それは措いて。早実のピッチャー、二枚目で聡明そうで表情涼しくしかもタフ。いいですねぇ。で、私このピッチャーで気に入っていることがあるんです。気づいている方も多いでしょうが、このピッチャー、顔の汗を手やユニフォームで拭いませんよ、尻のポケットからハンカチ取り出してささっと拭くだけです。あらら、お上品だこと。で、全く嫌味じゃないんですよ。お家の環境や、両親のしつけ具合が偲ばれることです。感情のままの咆吼やらガッツポーズよりもやはり彼のような抑制の利いたタフさの方が格好いいですね。こういう対比をまざまざと見せつけられると、嗚呼と思います。もちろんその人その人の好みの問題です、どちらに拍手を送ろうとそれは自由なのですが、丁度同じ日に同じ年格好の亀田の次男がまた勝ちました。で、おなじみのあのパフォーマンスです。ううむ、好対照。環境も何もかも違うスポーツですから、一列に比較するつもりなんぞもとよりありませんが、でも違うでしょう?是非そういう目で見てください、幸い今日もう一試合見られますから。
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mu様に

2006-08-20 20:38:59 | Weblog
御意見頂戴しました、いつも有り難うございます。仰言る通り、新聞もTVもどちらかに寄った表現をします。中韓の批判を前面に出すもの、自民党内の異論(加藤紘一に代表される)をトップにするもの、小泉さんの来し方をフラッシュするもの・・靖国問題は今次の戦争とは無関係ではあり得ませんし、東京裁判を避けては通れません。多くの識者が言うように、そのどれに対しても日本政府は(日本人は)解決してこなかった、責任の所在を明確にしなかった、総括していないということなのでしょう、ですから百説が百説のまま残っているということなのです。ま、これは今更言っても詮無きことです。ちゃんとした解決をせずに来たから左翼勢力(小泉さんがインタビューに答えて、いつ行っても批判するそういう勢力がある、と言ったその勢力です)の恣意を許し、現在に及んでいるのです。きっと小林よしのりの漫画などを見て、国が大切!と単純に思う若い人達が多いのでしょうね。あの人も色々喋り始めた頃は、ああやっとこんなことを言う人が出てきたんだ、と思ったものですが、最近は少々図に乗っている観です。言っていることは賛同しますが、些か撒き散らかし過ぎです。そして、あちらこちらに噛み付き過ぎです。小林観はさておき。国粋主義という定義でしょうね。国思う心は私は大事だと思っています。でも、それを高めすぎてその他の事々を蹴散らかすようになると危険です。私もそう思います。
 イギリス人の言う日本人観、残酷とはどういうことでしょうね。藤原正彦の本というのは、最近の国家の品格とか何とかいう本でしょうか。まだ読んでいませんのでお恥ずかしいことですが、どういう意味なんでしょうね、私にもわかりません。でも、日本人はお人好しなんだと思います。仰言るように日本が「大変住みやすい国」だとすれば、自分が害さねば害されないだろう、自分が敵意を持たなければ持たれないだろうと思いこんでいる人の良さに拠るんじゃないでしょうか。そう思ったりします。いかがですか。
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事の深層

2006-08-20 07:54:33 | Weblog
加藤紘一議員実家の放火事件、言論封殺を意図したもので許せぬ事!という流れですが、反応が低調だと毎日新聞が噛みついています。小泉さんと安倍さんとが丁度夏休み中で「だんまり」を決め込んでいるからだと。そうですかね、加藤さんへの好き嫌いが大きいんでしょうに、世論としてですよ。
 国後島の漁船拿捕事件、女政務官が当地に抗議に行きましたが結局抗議しただけ、遺体だけが帰ってきたというおそまつ。ま、手続きとすればこんな事なんでしょうが、例によって新聞記事はヒステリックです「銃撃ひど過ぎる」「二度とこんなことが起きないでほしい」遺体を迎えるために岸壁に集まった市民の姿に「これこそ市民の怒りの表れだ」と根室市長の弁。「若い命が理不尽に奪われたことに憤りを感じる」(すべて毎日新聞)詳細はやがて明らかにされるのでしょうが、読売が書いているように要は領海侵犯の問題ですから、国境が確定されていない地域であれば余計に慎重に対応せねばならぬのでしょうし、普通に考えてこっちの漁船にもきっと相当の非があったはずでしょう。そこを、女政務官が言うように「いかなる理由があっても、無防備の漁船に発砲することは、到底許容できない」なんて叫んでも、本点ずらしての因縁づけのようにも聞こえます。国境が定かでない、だからそういう無体をされる謂われはないという抗議であるなら、我が国の漁船の操業を自衛隊艦がずっと警護するくらいの態度を示すべきでしょうにね、国として。亡くなった方にはお気の毒ですが、もっともっと現場の状況を知らせてもらいたいと思います。産経新聞にこんな記事が出ていました、拿捕された船の船長は昭和55年にいわゆる「レポ船」事件(ソ連に対するスパイ行為です、物品や情報提供する代わりに北方領土内での安全操業の保証を得ていたというのです)で、罰金20万円の実刑を受けているそうです。この記事は「このために公安当局も今回の拿捕に関心を寄せている」とものものしいまとめ方をしています。さてさて、この船長このあたりでは顔が利いて、少々の領海侵犯は大目に見てもらっていたのではないでしょうか、本人にもそういう驕りがあったと推測するに困難ではないでしょう。で、たまたま向こうさんの監視員が正義感溢れる新米さんだったとか、以前から苦々しく思っていたところ今回あまりに目に余る行為をしてきたのでとうとう爆発したとか、そういう事情がありそうですよねぇ。「無言の対面 母と妻号泣(読売)」でしょう、当事者は。お気持ちは?どんな方でしたか?なんてつまらん事ばかり聞いて記事にする常套。週刊誌に委せずに、途中で投げずに、今回はズバッと深く斬り込んで見なさいよ、新聞社の皆さん。
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傾聴

2006-08-19 08:40:55 | Weblog
甲子園が面白いですねぇ(阪神が面白くないからです)、延長戦が多いし、劇的な逆転が多いこと。一人とんでもないエースがいるチームは昔から強いですが、今はプロ野球よろしく二枚三枚とピッチャーを擁している高校が目に付きますし、打つわ打つわです。帝京と智弁の試合がその象徴でしたね。でも、面白い。そして泣かせてくれる。連中の仕草に涙を誘われます。どんなにいかつい奴らでも17、8の子供ですからねぇ。見ている方が優しい気分になれるわけです。一人一人個別に会えば、横着でとんでもない奴もいるんでしょうがね。
 加藤紘一議員が、靖国発言が元で実家に放火されて、にわかにクローズアップされています。この人言うことははっきりしています、反小泉、反靖国。首相の靖国参拝にずっと反対している人です。最近では、靖国参拝を支持する論客の上坂冬子氏と対比されて、またよく対談も掲載されています。ですからこの人の論はよく人の知るところとなっています、だからああいう目に遭ったのでもありますが。戦争責任者(指導者)は断じられるべきで、そもそも靖国神社に祀られるべき人達ではない、いかに心の問題だとはいえ実際に指導者が祀られている社に国の宰相が頭を垂れることの意味は甚大だ、だからあくまでも靖国神社を参るのであれば戦争責任者を分祀するべきなのだ、あるいは別の慰霊施設を新設するべきだ、そもそも小泉さんはA級戦犯を戦争犯罪人と明言しているにも関わらずその犯罪人に頭を垂れることは戦争肯定に見られてもやむないことだというわけです。こういう論があればこその小泉論、上坂論なのですが、いかに多くの意見があり、批判非難に晒されたとしても、どれかを選ばなければならない事態での決断はその人の心情に信条に沿うばかりのことです。その人が一国の首相であればその行動が国の方針の如く思われるのはやむないことです、ですから慎重にせよという論は傾聴に値するものでしょうが、その蓑に隠れたいつ果てるともない掣肘抑圧を許しおく理由もないわけです。諸兄、私達も考えるべき事なのだと思いますが、いかがですか。
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戦争観

2006-08-18 08:41:02 | Weblog
さてまた雨の被害です。台風付近の被害だけでなく、北海道でも大雨のようです。何だか最近は、適当に照って適度に降るというのがなくなりましたね、35度を超える大照りが何日も続く、降れば土砂降り。これも地球の傷みの表現症状でしょうか、地球も歳をとったと言うことでしょうか。でも文明科学の進歩は現状の把握や予想能力を大きく伸ばしましたが(ちょっと前までは、当たらぬものの代表が天気予報でしたからね)、その制御に関してはそれこそ百年前と変わりません。命が惜しかったら逃げろ、です。危ないところから逃げろです。降るだけ降られて、浸水冠水土砂災害。人々は呆然とし、そして修繕修復し、元の暮らしに復旧します。そして頃合いを待っていたかのようにまた大雨が降ります。同じように、なされるがままです。うらめしく雨空を見上げるしかありません。同じように被害の大きさに呆れ驚き悲しみ嘆き、そしてまた復旧復活します。永遠なる繰り返し。人の世の中はこうした懲りることのない、倦むことのない繰り返しで成り立っているのです。もちろんこうした感想も何百何千年も前から繰り返し繰り返し人の心に浮かんでいるのです。人の世の本質の一つでしょう。科学は万能でも何でもないのです。
 今年の8/15は、新聞や月刊誌週刊誌上に保阪正康氏と半藤一利氏が目立ちました。いづれも昭和史に造詣の深い人で、著作も多く、前者は保守派で幾分左よりの論を張る人、後者は文芸春秋の元編集長で司馬遼太郎に近い歴史観を持つ人という印象を私は持っています。保阪氏が今日の中国新聞に、8/15の靖国参拝風景を題材にして、「民族派」の若者の戦死者を敬えという煽りに戦前の軍国主義、ナショナリズムへの直線的な回帰の臭いを嗅ぎ、戦死者遺族の違和感を添えています。この人の言う民族派とは単純な右翼思想連中を指すんでしょうが、右も左も結局は全体主義という色では同じですし、じゃぁリベラルという名の中庸がいいのかと言えばまさしくどっちつかずのふらふらです。左よりのリベラルに制されてきた戦後60年の反動などと大仰に表現せずともいいことなのでしょうが、小泉さんの8/15靖国参拝は十分に意味がありましたね。私は、誰かのせいにしようとする、それこそが戦争の総括だとする考え方には反対です。ナチスとドイツとの関係に沿わそうとするのでしょうか。戦争観、天皇観、戦後観。歴史を反省することは必要です。と同じ価値でその時代を生きていた人々の心に思いをいたすことが大切と思います。指導者達を咎めて事足れりとせず、市井の人々はどう思いどう生きていたのかに心を寄せる。指導者達もその時代の人に違いないのですから。
 
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言い分

2006-08-17 08:40:08 | Weblog
オシムジャパンの試合を見ました。前後の監督談話が楽しみだという「二度美味しい」チームですが、試合はあれれでした。日本のサッカーは上から下まで、パス回し優先、シュートは二の次、体力スピードは銘々の責任という方針なのですねぇ。若い奴らが出てきても、中村じゃぁ中田じゃぁと同じ動きスピードに見えます。そして何と言っても打っても打ってもふにゃふにゃシュート。これじゃぁ勝てんです。いや勝ったんですが、普通にスピードのある相手には歯が立たんでしょう。素人目にも明らかでしたが、如何思われましたか?羽生という小さな選手、この人はスピードと運動量があって目立ちましたね。彼がオシム好みのタイプなんでしょう。
 さてさてまた気の重い事件です、国後島近くでの漁船拿捕劇、銃撃戦にまで発展し一人の死亡者が出ました。中韓に続いて次は露というわけです。小泉さんも安倍さんも夏休みなんですかね、麻生さん強硬です。駐日大使を呼ぶ、駐露大使に即座に抗議に出向かせる、珍しく迅速且つわかりやすい対応です。銃の発砲に至ったのですから、向こうさんの責任者が余程の短気者か日本嫌いかでなければ、やはり相当の出来事があったと見るべきでしょう。事実関係の確認(政治家の常套語ですが)が急がれますが、麻生さん言っておられた通り向こうの言い分とこっちの言い分はおそらく食い違います、その上での交渉事です。密漁者を駆逐拿捕するは許されることなんでしょう、日本海で北朝鮮の船を追撃したのも同じ事ですから。あちらさんは単なる密漁ではなく何らかの工作目的の領海侵犯だったが、こっちは単純な密漁だろうに。そこまでやらずともいいじゃないか!という抗議になるんでしょうが、それは通らぬ理屈でしょう。露は「密漁者の取り締まりを日本政府はしていない」という反論をしていることからも、こういう衝突は日常のことだったのだろうと容易に想像がつきます。事実関係の把握は大事ですが、都合の悪いこともぞろぞろ出てくるんでしょうね。大事が起こった際のどたばたは世の常ですが、TV放映される母親の涙と混乱ぶりが今は世の中の心を覆っています。
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一匹の鼠

2006-08-16 08:40:02 | Weblog
広島のブラウン監督のフェアプレイ発言、球団関係者が中日に謝罪して終わりだそうです。事を荒立てないようにとなぁなぁの解決です。落合の「ルール内のことであれば企業努力の濃淡の問題」という捉え方が通ったわけです。何だかなぁ、です。芭蕉の言に「格に入り格を出れば自在を得。格に入らずんばすなわち邪なり」とあります。格とはルールです、それぞれの世界の基本原則です、有無を言わさず守らねばならぬ秩序と言い換えられましょうか。ルールの中で工夫すること、それこそが自由ということなのだ、と敷衍できる言葉ですが、だからといって何をやってもいいとはなりません。次に出てくるのが精神論、フェアプレイ論なのです。これがあればこそ深みや味わいが出てくるというものです。むろん一定のレベルの高さがあればこその精神論ではあるのですが、何もかも欧米人のやるような簡略主義、契約至主義にお追従することもありますまいに。
 昨日の小泉首相の大イベント、何だかとてもあっけない印象じゃありませんか?つまり、あれだけ行くな行くなと叫んでいた連中が何も言いません。TV報道もなんだか拍子抜けです。あのNHKでさえ一日中トップで報道していたのではありませんでした。朝日放送もそう。行っちゃったのなら仕方ないねぇ、とでも言うが如くです。中韓も別に何とも、です。行く前と行った後で、何にも変わりません。大使館焼き討ちするわけでも、ミサイル打ち込んでくるのでもないわけです。そんなもんなのです。連中の目的は日本を「もます」ことですから。ドカンとやられると、それ以上何も言えないわけです。でも、今日の朝刊は凄いですよ、日経と朝日はわざわざ主幹が一面に意見披露しています。アジア外交という盾の後ろでの中韓のご機嫌伺いが丸見えです。A級戦犯問題も実は彼らにとれば言いがかりをつける絶好の材料に過ぎぬのでしょう。でも、どの新聞も言うことですが、小泉さんのお陰で多くの国民が靖国神社に思いをいたしたことでしょう。これは確かなことだと思います。どこのことでもない、私達の祖父母が、父母が生きてきた我が日本の紛れもない歴史なのです。善悪の色づけでなく、責任所在探しでなく、当時国民がどう思いどう従いどう生きてきたのかを知ることが大切なことなんだと思います。
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小泉劇場

2006-08-15 09:02:57 | Weblog
広島のブラウン監督がフェアプレーに欠けるチームとして中日を名指しし、それに落合が反発、告訴を辞さないと怒っているそうです。サイン盗みやらの狡い行為をアンフェアと表現しているもので、落合は「ルールの中でやっていること、企業努力である」とし、野球界全体がばかにされたと怒っています。ことほど左様に、フェアプレイとルール遵守とは似て異なるものなのです。ルールを守るだけではフェアプレイではないのです。狡いことをしない、卑怯なマネはしないという心構えのことです。スポーツマンシップとも言い換えられるのでしょう、相手を思い遣る心です。ルールを守りさえすればいいのだという形式上の遵法は、かのホリエモンを生み、村上ファンドの幼稚な顛末を招来させました。あの嫌な感じ、後味の悪さは記憶に新しいことですし、人々は溜飲を下げ「狡いことはできぬのだ」とどこかで安堵を感じていたはずです。誰かが言っている言葉ですが、フェアプレイは精神論です。その人の心根です。落合の言うように企業努力と位置づけるか、そんな手を使ってまでやることはないと一喝するか、その人の心根です。負けている側が言い立てると遠吠えの感を拭えませんが、その意気やよしなのではありましょう。しかしこういうことは、勝っている側、強い側がさらりと言ってのけるが格好いいことではあります。
 新聞各紙は終戦記念日に合わせて、そして近時の靖国論争をふまえてか戦争責任論を特集しています。特に読売新聞は強く示しています。もう61年も前のことをです。靖国問題がいつまでもくすぶるのは、東京裁判という戦勝国による敗戦国の裁きだけで、日本人がちゃんと決着をつけていないからだというところで、右も左もほぼ一致した認識のようですが、今更の感です。いかにも昔のことです。戦争を起こした責任、無理を知りつつ遂行継続した責任、敗戦した責任、多くの国民を亡くした責任等々どこを責めるかという問題から始まって、常に最後には天皇陛下の責任問題に及びうやむやのうちに終息する。天皇の責任に言及しながら、あの富田メモを重宝する論調。戦犯をどう裁くか論は不毛に思います。石原慎太郎が昔から言っていることですが、最も責められるべきは兵站の軽視だという論に与します。食料は現地調達せよなどという無茶が罷り通る、現地では当然の如く略奪の限りが尽くされる。戦死者の八割が餓死者だという戦慄する事実。多くの国民を亡くしたこと、そのこと自体は国が戦を選択したのですからやむなきことと思います、が、敵の待ちかまえる中に放り込まれ、国は逃げ道を作らず、その挙げ句に餓死、病死するしかなかった多くの兵隊達の無念。満州、朝鮮からの引き上げ者達の地獄。国が責任を表するとすればこの点であろうと私は思っています。しかし60年の歳月はいかにも長いことです。今更問うな、ではありません。検証するのなら、中韓の挑発にのらず、ぼんやりした議論でなく(軍国主義の復活などというあり得ないような言いがかりではなく)、この点あの点と区別する手法が要るのでしょう。現場を知る人が少なくなってくることもあわせてです。A級戦犯合祀の問題も、靖国神社本来の原義(誰々を祀るのか)を広く国民に知らしめることと、東京裁判史観是非論との分離とが必要だろうと思います。本来全く別の問題であることが同じ鍋の中で混ぜられ捏ねられているから、不毛なのです。むろんこの混乱が恣意的にもたらされているのだという言い方もできるわけですが。
 しかし、今日小泉さんがとうとう靖国参られましたね。安倍さんが来年「前例に沿って」堂々と参拝されれば、沈静しますね。麻生さんやら谷垣さんやらのような先送り論を中韓は待っているわけで、国内の反対論者達(加藤紘一のような)のよすがはアジア外交という名の中韓のご機嫌伺いですから、ひとつ決着したわけです、むろん連中ああだこうだと言い続けましょうが。ううむ、いよいよ安倍さんの心意気が問われるところ、なんだか羨ましい気がします。
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夏祭り

2006-08-14 07:05:58 | Weblog
今年の夏も十分に暑いです。毎年毎年暑さが度を増しているように思います。温度や湿度といった数値以上に体感するところですが、こっちも毎年年齢を加えていますからね、客観性からはどんどん離れていく感想ではあります。
 阪神、何やってるんでしょうね。負けようと思ってはいないのでしょうが、勝とうともしてないです。中日相手にいきなり6タテとは何事!?
 当地で夏祭りがありました。金魚ちょうちん祭といって、もう何年になるんでしょうか、昔からの伝統の祭じゃなくて新たに創設されたものですが、これが年々歳々人出が増えます。丁度盆の帰省時期に合わせて(毎年8/13)開催されるので、そういう人出をもちろん見込んではいるのですが、当初はさみしいもんでしたが、いつの頃からか若い衆たちがわんさか出てくるようになって、浴衣姿の女の子が増えて華やかさも加わって、最近何年かはなかなかのものです。関係者各位の努力の賜でありますが、やはり夜の祭、賑わいには誰もが心引かれるのでしょうね。初めは斜に構えて遠巻きに眺めていても、やがて繰り出す場として認知されるわけです。そういう経過です。長く続けなければならぬということでもありますが、内容への工夫やらアナウンスやら関係者の仕事も半端じゃないでしょう、設営から撤収まであれもこれも。結果が出りゃこそやりがいもあろうというもの、人の波を分け歩きながら感心することでした。そして、こういうイベントに町おこしとか地域振興とか、そういうレッテルは似つかわしくないとも思いました。実際に朝早くから大汗かいて準備するスタッフにはそういう意識はなかろうからです。別に誰に褒めてもらわずともいいわけです。事を続けると言うことはそういうことなんでしょう。打ち揚がる花火を見ながらそう思いました。
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福祉という強制

2006-08-13 10:06:31 | Weblog
安倍さん、地元の下関で事実上の立候補宣言です。地元で第一声というのが、いかにも政治家らしくていいですね。私はあなた方に選ばれてここに居ます、ありがとうございます、という表現です。地元としても嬉しくないはずがないことですし、尚一層の後押しをしようとわき上がるわけです。こうやって流れが作られるのでしょうね、次は東京で正式に多くのプレスを前にして宣言する。順を踏む。こういう演出する人がいるわけです。勝つと見えているレース、いかに堅くきれいに作り上げるかです。伸るか反るかの勝負ではありません。かえって骨が折れることかも知れませんね、外野の戯言ながら。ちなみに、昨日は6人目の長州出身の宰相と書きましたが、8人目だそうです。訂正します。
 読売新聞のコラム(編集手帳)に終末期医療のことが書かれています。長く、今も議論の対象になっていることですが、余りに陳腐で実のないまとめなので噛みつきます。あらすじはこうです、昔は枯れ枝のような死体が多かったが、今は延命治療(要らぬ治療というニュアンスが行間にありありです)によってぶよぶよした死体が多くなった、枯れ枝のような死を選びたいという詩人の言を取り上げて、「自宅死亡は望むべくもないが、病院でも、それぞれの人の希望に沿った死の迎え方ができればと思う」とまとめます。異議申し立てるは二点。一つは、延命処置が医者の(医学の進歩などと総称される漠たる概念)恣意によるものであるかのごとき謂。そんなことされたくない人もいるのに、無理矢理ぶよぶよにされるのはいかがなものか、という言外の批判。病院で治療しながら枯れ枝のようにはなかなかなりません。ガンで、あれこれいじくり回された挙げ句に痩せて痩せてという特殊なケースを除けば、病院に運び込んだら治療の対象です。枯れ枝のようにされたら、あなた文句言いませんか?例えば、その人が病前に延命処置を拒否していたとしましょう、で家族がその旨を医者に伝えたとしましょう、その医者が私のような者ならその意に十分に沿ってさし上げます。医者と家族とが同じ思いであればそれもうまく行きます。が、そうでない場合の方が多いのです。まず医者に職業意識(正義感)溢れる場合。家族の思いが却下される場合です。これも抗えないでしょう、命は地球より重いんです!なんて目も眩むような正論を振り回されたら、黙るしかありませんから。果たしてぶよぶよにされます。この場合をコラム子は批判しているのですが、確かにこのケース多いはずです。病院に連れたことが間違いでした、ということです。もう一つは、後になって別の家族がクレームつけてくる場合です。治療開始当初は同居していた長男が延命処置を拒み医者も了解してその方向で進んでいたところが、遠くに住む姉さんがやってきて可哀想とやら大騒ぎする。医者としては要らぬトラブルは起こしたくないですから、しっかり型通りの治療を始める。果たしてぶよぶよになる。このケースの方が多いと思います。本人の意志などは全くの無力です。そうでしょう?本人の意識のない場合、喋れないほど弱っている場合にどうやって意思表示するんです?となると家族の意志です、医者が基準にするのは。でも一致しませんよ、皆口々に言いますから。よくあるのは、普段知らん顔している遠くに嫁いでいる長姉とか、面倒を弟に押しつけていた長男とかが、その場に限ってうろたえる(振りをする)、親思いの振りをする、大仰に叫ぶわけです。先に書いた正義の味方の医者と同様、周りがびっくりするような空っぽな博愛論をぶって振り回すわけです。で、しかたなく濃厚な治療を再開する。そういうケースです。誰の所為ですか?そういう意思決定を医者は曲げられません。「それぞれの人の希望に沿った死の迎え方」などは、身内が曲げていくのです。他人(医者)でも社会でも世間でもありませんよ。思い違いも甚だしいことです。
 二つ目は、自宅死亡は望むべくもないが、という前提。病院に連れ込むは誰の意志なのか、それは勝手な言い方じゃありませんかという違和感。自宅で死ぬことは誰にでもできることです。ここも思い違いが甚だしいです。病院に連れなければ済むことです。近くの内科医に往診を頼む、今や介護保険の網は十分に張り巡らされていますから、訪問看護などを利用する。すれば、自宅で死ねます。もちろんその為には家族には相当の覚悟が要ります、食事、下の世話に始まって、他人(医者やら介護スタッフ)が家に入ってくるストレス、様態悪化すれば本人の辛そうな姿をずっと見ていないとなりません。いや、ちゃんと看ておられる家は多いですよ、でも大変な努力です。それがいやだから(こういう人はそんなことできないと表現します。不可能と言い換えます、その気がないことを)、病院に運び込みます。そうじゃありませんか?そういう事情をも含んでの「自宅死亡は望むべくもない」であるなら(つまり、私は看ない、この人は自宅では死なせないという意思表示)病人の関係者(家族)としての責任をもっと重大に考えるべきであり、家族の意見を一致させることでしょう。病院に運び込むなら、預けるという意識が要りませんか?あなたの代わりに看ているわけです、病院も介護施設も。でもそうじゃないんでしょうね、こういう論を張る人にかかれば。医者が勝手に要らない治療をしてぶよぶよにしてしまうんでしょう。さてさて。自宅で死ぬことを望む人が多いとやら延命治療を望まない人が多いとかいうデータを掲げて、スパゲッティー症候群などど称して終末医療を揶揄する風潮は、見方を変えれば年寄りを人に預けているだけのことなんです。枯れ枝のようになるまで放っておけばいいのに、福祉という強制が不要の節介をするんです。それを当然としているから、自宅死亡は望むべくもないなんていう馬鹿馬鹿しい前提が出来上がるんです。諸兄、人に委せる以上は口出しせぬが常識じゃありませんか?
 
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