柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

元兵士の言(2)

2006-08-10 14:59:59 | Weblog
朝に書ききれなかったこと追記します。
 古賀さんが遺族会会長としてA級戦犯の分祀に賛成するのは、私が話を聞いた元兵士の心持ちと同じ思いからでしょう。この人の父親は一兵卒として戦死されたそうです。かたやで、A級戦犯として処刑され東条英機らとともに靖国に祀られている元陸軍大将板垣征四郎の息子である元議員の板垣正は、一時分祀案に賛成はしますが、遺族会の会長としての古賀さんの言には反対しています、戦争指導者とはいえ同じ国民であるという気持ちからでしょうか。国の礎にと信じて散った名も無き多くの兵士(国民)達の御霊を祀るという、極めて純粋な感謝と慰謝と哀悼の場としての靖国であれば、戦争指導者が一緒に祀られていることへの違和感は十分に理解できます。でも、その指導者達も全員が天皇の赤子であり股肱であったわけです。心根は一つ、国体の維持であったはずです。敗戦に終わったからと言って、一概に悪者に仕立てるも間違いと思います。決定すべき時に、決定すべき人が、しかるべき手続きを踏んで決定したことです。結果として誤りだとされても、それは後世の智恵によるものであって、その時代を否定することなどできません。
 中韓はA級戦犯を戦争犯罪人と認識して(東京裁判は事後法により、そう決めつけました)、そういう者達に首相が祈るなどと侵略の歴史を肯定するつもりか!と言いがかりをつけているだけのことです。まさに言いがかりです。靖国には国思って死んでいった多くの御霊が宿っているわけです。
 話を聞いたもう一人のお年寄りは、大正11年生まれの女性、当地の海辺の寒村に80年生まれ育っている人です。終戦時の玉音放送はここ辺りでも皆聞いたのか?と問いました。ら、聞いたと。しっかり聞いたぞ、負けたんじゃとわかったそうです。一応この人の言は信頼の置けるものと思います。へへぇ~でした。ラジオのある家とない家があって、うちにはあった。みんなで聞けとお触れがあったのか?という問いには「覚えちょらん」でした。よく映像にあるような、多くの人が首うなだれて聞いている、ある人は泣いている、ある人はがくりと膝を折る、という場面ではなく、淡々と聞き、だからといってその後の生活に何の変化もなかったそうなのです。田舎のことですから、食糧事情もさほど悪くなかったらしく、私達が教科書で知っている貧困飢餓忍耐辛抱という印象ではないのです。言葉が悪いですが、のんびりしているのです。ああ、でした。私達は何も知らないでいるのでしょう。東京の大阪の名古屋の小倉の、そして広島の長崎の悲劇でもって戦争を括っているのでしょう。特攻の、人間魚雷の、戦艦大和のという、平時から見れば眉を顰め目を逸らすばかりの無体さ、非人間的ふるまい、人を人とも思わない狂気の渦と括っているのでしょう。でも、あの時代にも、当然ながら人は生きていたのです、ちゃんとした日常があったのです。非日常などではなかったのです。ううむ、都会と田舎の差だと言ってしまえばそうなのかも知れませんが、戦争を指導していた人達も、兵隊に取られ戦地に送られた男達も、銃後で当たり前に暮らし働き待ち続けていた女達も、同じ時代を、同じ戦争を生きていたのです。そんな当然のことにやっと気づいたような思いがしました。
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元兵士の言に

2006-08-10 08:40:49 | Weblog
巨人の星がリメイクされるそうです。今度は花形満が主人公だそうです。じゃぁ、阪神の星かじゃないか、という噛みつきもそうなんですが、きのうラジオ聞いていてびっくりしました。なんでも、花形満が主人公になる理由が、今時は原作のような貧乏人の艱難刻苦物語は受けないからだそうです。へぇ~でした。髪の長い、裕福な育ちの美形じゃないとリアルじゃないんだそうです。それこそリアルタイムで、土曜の7時にTVに釘付けになっていた世代としては、ちと複雑じゃありませんか?
 昨日たまたま戦争体験者のお年寄りと話す機会がありました。一人は大正9年生まれの男性、あの悪名高きインパール作戦に従軍し終戦をインドで迎えたという終戦時26歳のバリバリの元兵士です。戦況を知らされることなく、生き残った兵隊はインドの深くまで進軍していたというわけです。色々聞いている内に靖国神社の話になり、当時の靖国神社の位置づけは?と問うと「天皇陛下と同等の態度で接していた。絶対の存在だった。まぁ、国のために死んでいった人を祀るところだから当然じゃぁあったが」と仰言る。東条英機が一緒に祀られていることに対してはどう思われるか?と畳みかけると、しばらく考えられて「はがいい(くやしい)と思う。ちとおかしいと思う」と言われた。私はこの言葉に甚く感動しました。ああ、靖国とはそういう存在であったのです。端々の一兵卒と呼ばれる大多数の兵士達にとって、靖国神社の存在はどれほど心の拠り所であったかということです。いや、誰かに作られた、誰かに誑かされた挙げ句の狂気、マインドコントロールだと人の所為にするのは当たりません、あの時代が確かにそうだったのですから。「一銭五厘(赤紙郵送の切手代)の命」「一銭五厘で何人でも集まる消耗品」などと呼ばれていた一介の兵隊達の死ぬための拠り所、いわば死ぬ目的が靖国に凝縮象徴されていたんでしょう。そしてそこに、戦争責任者とされる、戦地にも行かず、戦場の苦しみも何も知らず、国のために死ねと叫び強制しながら己はアメリカにのうのうと手を挙げ降伏する、いけしゃあしゃあと恥も知らず裁判なるものを受け容れる連中が合わせ祀られることへの嫌悪、違和感でしょう。あ、と思いました。私が如き者の、知識としての理解の遠く及ばない「体感」だと思いました。そういう見方をすると、東条英機の遺族が分祀に反対した理由、これを認めると東京裁判を受け容れたことになるから、という謂もうつろに聞こえます。論点のすり替えのようにも思います。ううむ、戦争経験者の少なくなっている中、実際にその時代をくぐってきた人達の意見や気持ちこそを尊重すべきじゃないのかと今は強く思っています。靖国に祀られている名も無き大多数の人々への感謝と哀悼は決して誰にも文句を言われることではないです。そういう思いも非常に強くなりました。
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