柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

戦争観

2006-08-18 08:41:02 | Weblog
さてまた雨の被害です。台風付近の被害だけでなく、北海道でも大雨のようです。何だか最近は、適当に照って適度に降るというのがなくなりましたね、35度を超える大照りが何日も続く、降れば土砂降り。これも地球の傷みの表現症状でしょうか、地球も歳をとったと言うことでしょうか。でも文明科学の進歩は現状の把握や予想能力を大きく伸ばしましたが(ちょっと前までは、当たらぬものの代表が天気予報でしたからね)、その制御に関してはそれこそ百年前と変わりません。命が惜しかったら逃げろ、です。危ないところから逃げろです。降るだけ降られて、浸水冠水土砂災害。人々は呆然とし、そして修繕修復し、元の暮らしに復旧します。そして頃合いを待っていたかのようにまた大雨が降ります。同じように、なされるがままです。うらめしく雨空を見上げるしかありません。同じように被害の大きさに呆れ驚き悲しみ嘆き、そしてまた復旧復活します。永遠なる繰り返し。人の世の中はこうした懲りることのない、倦むことのない繰り返しで成り立っているのです。もちろんこうした感想も何百何千年も前から繰り返し繰り返し人の心に浮かんでいるのです。人の世の本質の一つでしょう。科学は万能でも何でもないのです。
 今年の8/15は、新聞や月刊誌週刊誌上に保阪正康氏と半藤一利氏が目立ちました。いづれも昭和史に造詣の深い人で、著作も多く、前者は保守派で幾分左よりの論を張る人、後者は文芸春秋の元編集長で司馬遼太郎に近い歴史観を持つ人という印象を私は持っています。保阪氏が今日の中国新聞に、8/15の靖国参拝風景を題材にして、「民族派」の若者の戦死者を敬えという煽りに戦前の軍国主義、ナショナリズムへの直線的な回帰の臭いを嗅ぎ、戦死者遺族の違和感を添えています。この人の言う民族派とは単純な右翼思想連中を指すんでしょうが、右も左も結局は全体主義という色では同じですし、じゃぁリベラルという名の中庸がいいのかと言えばまさしくどっちつかずのふらふらです。左よりのリベラルに制されてきた戦後60年の反動などと大仰に表現せずともいいことなのでしょうが、小泉さんの8/15靖国参拝は十分に意味がありましたね。私は、誰かのせいにしようとする、それこそが戦争の総括だとする考え方には反対です。ナチスとドイツとの関係に沿わそうとするのでしょうか。戦争観、天皇観、戦後観。歴史を反省することは必要です。と同じ価値でその時代を生きていた人々の心に思いをいたすことが大切と思います。指導者達を咎めて事足れりとせず、市井の人々はどう思いどう生きていたのかに心を寄せる。指導者達もその時代の人に違いないのですから。
 
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