一億円裏献金事件(なんとそのまんまの命名だこと)で、村岡さんが無罪判決されたとのこと。毎日新聞の社説の見出しは「では、一番悪いのは誰だ」です。そんなこと領袖の橋本さんに違いないじゃないですか、間抜けなことを。野坂の青木のが差し繰って、会計責任者とやらに圧力掛けて、検察にも話を通してのひと芝居でしょうに。金を渡した側(歯科連盟会長)が、渡したと言うているんですからねぇ。まぁ、この連中には恥の意識やら公器としての心意気とやらが全く欠けているわけです。橋本さん、確か剣道の有段者でしたよねぇ、なんたる恥ずかしいこと。いえ、村岡さんがどうかもわからぬことですが。しかし一億円も献金して知らぬ存ぜぬと通されている歯科連盟もいい面の皮でした、どぶに捨ててしまったという図です。せっせと会員(歯科医)から集めた会費なんですけどねぇ。悲しき政治工作です。政治家は金で動きます、真実なのでしょう。村岡さんは無罪判決に涙が出たと感想を述べています。それはそれで良く理解できるのですが、所詮は一人の、どこの誰かもよくわからない、どれだけ人生を知り人の道を知り人格高い人なのかなど知るすべもない、つまりどんな考え方をする人なのかもわからぬ、ただただ法律の専門家というだけの一裁判官の判断に過ぎないのです。だから、単に法律上の手続きに沿って、機械的に判断されているばかりのことなのです。この判断は、それが正しいか否かの次元ではないのです。これを強調したいのです。もっと言えば、法律は善悪正邪の判断ではないということです。ただのトラブル解決のためのツールなのです。どんな迷惑でも、トラブルとして申告しなければそのままなのです。どんな悪いことでも法律に触れぬ事もある一方で、その逆もありますよね。前にも書きましたが、法律をはじめとした色々な規則も、その一回りも二回りも大きい社会生活上のルール、つまりそれが善悪正邪の行動規範ですが、土井のおばあさんのセリフじゃないですが「だめといったらだめ」という問答無用の決め事があればこそ、それも当然のこととして誰もが守るという大前提があっての意味意義です。法律が許しても、あの野郎許さん!は当然あるのです。橋本さんを裁判所が追いつめられなくても、ああやってあの人は舞台から去らねばならなくなるのです。裁判官の判断は天の声ではありません。一人の人間が考えたことに過ぎないのです。評価などどうにでも変わるのです。
行蔵は我にあり。福沢諭吉のイチャモンに答えた勝海舟の言葉です。人の評価なぞが目的でもなければ基準ではない、自分の行動は全て自分の中で完結しているのだという意味と理解していま
す。ううむ、俯仰天地に恥じない生き方をせねばなりません。小さい頃言われたでしょう「お天道様が見ちょってぞ!」やってはいけないことは法律には書いてないのですぞ。
行蔵は我にあり。福沢諭吉のイチャモンに答えた勝海舟の言葉です。人の評価なぞが目的でもなければ基準ではない、自分の行動は全て自分の中で完結しているのだという意味と理解していま
す。ううむ、俯仰天地に恥じない生き方をせねばなりません。小さい頃言われたでしょう「お天道様が見ちょってぞ!」やってはいけないことは法律には書いてないのですぞ。