柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

行蔵は我にあり

2006-03-31 08:38:23 | Weblog
一億円裏献金事件(なんとそのまんまの命名だこと)で、村岡さんが無罪判決されたとのこと。毎日新聞の社説の見出しは「では、一番悪いのは誰だ」です。そんなこと領袖の橋本さんに違いないじゃないですか、間抜けなことを。野坂の青木のが差し繰って、会計責任者とやらに圧力掛けて、検察にも話を通してのひと芝居でしょうに。金を渡した側(歯科連盟会長)が、渡したと言うているんですからねぇ。まぁ、この連中には恥の意識やら公器としての心意気とやらが全く欠けているわけです。橋本さん、確か剣道の有段者でしたよねぇ、なんたる恥ずかしいこと。いえ、村岡さんがどうかもわからぬことですが。しかし一億円も献金して知らぬ存ぜぬと通されている歯科連盟もいい面の皮でした、どぶに捨ててしまったという図です。せっせと会員(歯科医)から集めた会費なんですけどねぇ。悲しき政治工作です。政治家は金で動きます、真実なのでしょう。村岡さんは無罪判決に涙が出たと感想を述べています。それはそれで良く理解できるのですが、所詮は一人の、どこの誰かもよくわからない、どれだけ人生を知り人の道を知り人格高い人なのかなど知るすべもない、つまりどんな考え方をする人なのかもわからぬ、ただただ法律の専門家というだけの一裁判官の判断に過ぎないのです。だから、単に法律上の手続きに沿って、機械的に判断されているばかりのことなのです。この判断は、それが正しいか否かの次元ではないのです。これを強調したいのです。もっと言えば、法律は善悪正邪の判断ではないということです。ただのトラブル解決のためのツールなのです。どんな迷惑でも、トラブルとして申告しなければそのままなのです。どんな悪いことでも法律に触れぬ事もある一方で、その逆もありますよね。前にも書きましたが、法律をはじめとした色々な規則も、その一回りも二回りも大きい社会生活上のルール、つまりそれが善悪正邪の行動規範ですが、土井のおばあさんのセリフじゃないですが「だめといったらだめ」という問答無用の決め事があればこそ、それも当然のこととして誰もが守るという大前提があっての意味意義です。法律が許しても、あの野郎許さん!は当然あるのです。橋本さんを裁判所が追いつめられなくても、ああやってあの人は舞台から去らねばならなくなるのです。裁判官の判断は天の声ではありません。一人の人間が考えたことに過ぎないのです。評価などどうにでも変わるのです。
 行蔵は我にあり。福沢諭吉のイチャモンに答えた勝海舟の言葉です。人の評価なぞが目的でもなければ基準ではない、自分の行動は全て自分の中で完結しているのだという意味と理解していま
す。ううむ、俯仰天地に恥じない生き方をせねばなりません。小さい頃言われたでしょう「お天道様が見ちょってぞ!」やってはいけないことは法律には書いてないのですぞ。
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専門の壁

2006-03-30 08:37:58 | Weblog
以前の稿を読み返すと誤字脱字が目立ちます。真に情けないことであります。非才をお嗤い下さいませ。さて、しつこいですが安楽死事件、当の外科部長が口を開きました。新聞記事(切り取っている部分が新聞によってまちまちなので、ニュアンスがまるで違うものなのですが、日経新聞によると)動機は「愛しかない」のだそうです。NHKでのインタビューを聞くには、やはりこの人の独善の感は否めません。警察はこの部長以外に関与した医者がいるかどうかを調べているそうです。ううむ、早くも焦点がずれて行きますね。で、やがてマスコミも飽きて手を引きます。忘れられます。我々が知りたいのは何でしょうか?警察が知りたい「誰がやったのか」ではないですね。この行為が正しいのか否かの判断でしょうか。公式には法的な判断しかないわけで、実際に未だ法制化されていない以上、過去の判例に照らすばかりのことですが、さて当の部長が言うように患者家族との信頼関係が強固なものであれば起訴に至らぬ事態も十分に予想されるのですから、あらら、法に触れるか否かの判断までにも至らぬかも知れないのです。で、例によってうやむやです。法律を作らないと同じ事が延々と繰り返されましょう。そうでなければ、いつまで経っても感情論どまり(許されん!とか、しかたないねぇとかの次元)です。自分の死について常に考えておかねばならないなんて、識者さん達が偉そうに結論することですが、人ごとなら考えられます。自分がそういう決定の場にいない場合なら何とでも言えます「俺は長々と生きていたくはない!」なんて。でも、一旦自分の身にふりかかると一変しますよ、いきなり死にたくない!です。さらに、自分の家族がその場に置かれても同じ事です「できるだけのことをして下さい」でしょう?ダメなんです、こういう先送りでは。難しい、難しいと頭抱える真似して、わざと思考停止して頬被りして口を拭うのが、いわゆる評論家達の常套であり、そうやって不可触区域を作り上げて、そこで医者の独善が罷り通る、専門家の専横が幅を利かすのです。解決法はただ一つ、脳死移植法のごとく早く法制化することです!残念ながら、専門家の壁(これぞ典型的なバカの壁です)は険難峻険なのです。
 もう一つ、園児割りばし死亡事故の判決。医者の過失は認定したものの、無罪だそうです。両親のやるせなさはいかばかりかと同情に余りありますが、判決が正しいとは限りません。一人の裁判官の判断に過ぎないのですし、どちらかに有利な、喜ばしい判決になれば、相手方にはその逆ですからね。裁判判断と感情の納まりとは別次元のことと割り切らねばなりますまい。で、この事例、専門の壁の高さ、つまり専門家が隠せば素人には窺い知ることすらできないという理不尽不公平を示しています。「気づいて脳神経外科医に引き継いでも救えた可能性は極めて低かった」と裁判官が言ったそうですが、いいえ、初診時にCTを撮っていれば必ず所見があったはずです。どの脳神経外科医に聞いてもきっとそう推測するでしょう、なぜならその後死亡しているのですから。だから、なぜCT検査しなかったのか、ということが咎めれられるべきなのだと思いますが、そうではなかったのでしょうねぇ。弁護士に知識が足りなかったのでしょうし、勉強不足だったのでしょうか。その意味で、今日の読売新聞の論説で田中秀一という記者が書いている如く、不作為(CTを撮らなかった)こそが咎められるべきだと私も思います。こういう勘所に医者が口を閉ざせば、都合の悪いことを言う必要はないにせよ、全て隠されたまま、素人(患者)はその結果を受け容れるしかないという流れに、医者という職業意識、公器としてのプロ意識はそこまで腐り廃れたのか、という情けなさ、底知れぬ薄気味悪さを感じます。いえ、医者に限らず、専門家一般に言えることでしょう。傲り、専横、慢心、隠蔽。ううむ、今日は腹立たしいわけです・・。
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安楽死事件(二)

2006-03-29 08:39:25 | Weblog
毎日新聞の発信箱というコラムの、元村有希子という人の文章が好きで良く読むのですが、今日の記事は安楽死事件についてのものでした。この人の論は、ありがちなぼんやりさ曖昧さがなく、直截で、スパッとリアルに剔ってくれる事が多いので好きなのですが、さすがにこの話題は踏み込み難いと見え切っ先が鈍り、この問題は難しいという平凡な結論でした、残念。とまれ、他の新聞の論評を読むに、何だか先日私がここに書いたようなものが多く、ああ、私の考えも平凡なのかと、些かショックなので、また書いています。事態にも変化があったようです、朝日新聞には遺族が先に出した「医師からは説明を受けていない」との見解を否定し、呼吸器取り外しの話を医師から聞き、それに同意したという趣旨の文章を自宅前に張り出したそうです。さて、これで少なくとも家族の同意はあったということになるのでしょう。で次は、本人の意思はどうであったかという調査に法的には進むのでしょうが、元村氏も言うように、脳死法のように早く法政化することが勘所と思います。法律が必ずしも正しいのではないという大前提に則り、しかし規範は必要なのです。医者と患者との関係は信頼の濃淡だけという極めて不安定なものですが、これは多くの新聞が論評する如きチーム医療とやら監視体制の強化とやらの上っ面なぞりでは何の解決にもならないのです。リアルじゃないのです。倫理観やら使命感やらは十人十色ですから、すぐに信念などという精神論に姿を変えて、他人の介入を許さぬ鎧を着てしまいます。ですから、こういうことを振り回してもだめです。そして、凡百の論者が言う如き「難しい」では何も生まれません。ううむ、悲しいかな、多くの人間の足並みを揃えるためにはやはり規則が、マニュアルが必要となるのです。この手の強制強要は必要悪(私が最も忌み嫌うことですので、ここでは悪です、あしからず)と受容せねばなりません。それが社会の維持ということなのでしょう。さてこの事件、どうなりましょうか、なにせ対象は七人だそうですからね。中に一人くらいは「説明は受けていない」と言い張る者もおりましょうからねぇ。
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ナショナリズム

2006-03-28 08:40:44 | Weblog
昨夜の小泉首相の記者会見、一番最後の部分間に合い見ていました。元々こういう喋りなのでしょうか、前回の衆議院選挙大勝の後のものを同様、意識してトーンを落としているのかと訝るほど抑えた口調でしたね。で、最後のテーマは靖国参拝問題でした。例によってNHK記者からの質問です。論旨は今までのものと変わりませんでしたが、最近は先が見えてきたからでしょうか結構直接的な物言いになってきて、面白かったです。曰く、人の考え方や内心の自由、権利をあれだけ声高に要求する人達が、何故にこの問題に関しては個人内心の自由を認めずに、中韓の言うことを聞けとばかり言うのか、という反論でした。快哉でしたね。この辺りの不自然さに私達素人も気づいてきています、右の左のではなくてです。不自然なのですね。で、今日の中国新聞に詩人とクレジットをつけた人の一文が載っていました。WBCの優勝は嬉しかったけれど、「勝利至上の寒気を覚えるようなナショナリズムの乱発だけはごめんこうむりたい」そうなのです。W杯や今回のWBCを契機に突然出現してくるナショナリズム意識は不気味、だそうです。この人のナショナリズムの定義は、何がどうであれ、日本さえ勝てればよいという意識のようです。ううむ。この手の人々、
この人達こそが昨日小泉首相が指摘した連中なのでしょうが、にかかると日本!日本!と言うことが即軍国主義や戦争に繋がるとなるのでしょう、つまりナショナリズムは最悪の心向きであって、こういうのはナショナリズムというより愛国心(パトリオティズム)なのでしょうが、自分の気に入らぬ事、心持ちの悪いことにこの言葉を冠して排除しようとするわけです。何故、日本頑張れと応援するのがいけないのでしょうかねぇ。一番根っこのところで考え違いしているのではないでしょうか。アメリカはあれだけなりふり構わずに、韓国はあれだけの特典を目の前にぶらさげて、勝ちに来ていたじゃありませんか。そういう相手に負けるな!日本行け!という自然な感情を、どういう理屈でもって否定できるのでしょうねぇ。あれで負けていたら、大文句を並べたであろう口で、勝ったら勝ったで、問題を(視点を)すり替えてイチャモンをつける。ううむ、首相のあの抑制の利いた口調が、百の言葉より憤りを一番表していたのでしょう。物事はどちらかに転ばせるものだという真理ですか。
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安楽死疑惑

2006-03-27 08:31:39 | Weblog
富山の市民病院での呼吸器外し、安楽死疑惑事件、いかが思われますか。当の外科部長は尊厳死と譲らなかったそうです、院長の「後出し」コメントによると。こういう後出しの正義漢ぶりは、よくあるパターンですが、小狡い印象を拭えませんね、何故その時点で止めなかったのかという責任を逃れようとする意思が見え見えですから。ま、ここではさて措いて。安楽死と尊厳死とどう違うのか、単に定義の話ですが、ものの本によるとこうです、安楽死は医者が医療行為で積極的に患者を死なせるもの、尊厳死は自らの意思で延命処置を拒否するもの。実際には、安楽死については判例があって、いくつかの要件(条件)を備えれば違法性が阻却される、つまり殺人罪には問われないという判断が出ています。もちろん、だからといってこういう処置が正しいものと認知されているのでは決してありませんし、なにより脳死に関わる臓器移植法の如く法律が整備されているのでもありません。極めて法的に(強調しますが、あくまで法的にの話です)不安定な状態です。から、この外科部長の行為は軽率であった誹りは免れますまい。かたや、尊厳死は医療を拒否するということですから、簡単なことのように思えますが、いやいや、本人が仮にずっとその意志が強くても、周りが許さないことがほとんどでしょうし、ましてや死の迫った重篤な状態にある本人が明確に意思表示できると考える方が不自然で、勢い判断は家族が下すようになります。だから、元気なうちにそう言う意思表示を文章で残して置けという考えがあって、リビング・ウィルという呼び名でいわば遺言書のように書き留めておく人もいるようです。でも、くどいですが、治療を施すか否かを決めるのは本人でなく家族である場合がほとんどですし、実際現場の医者も家族の意志に反するような行為はできはしません。尊厳死というのは、概念としてはなるほどねと納得はできますが、実際の運用には大きな壁がそびえています、実用性に乏しいと現時点では断ぜざるを得ますまい。今回のケースは本人の意思を確信できない状況だそうですから、とても尊厳死などと強弁はできません。加えて、未だ尊厳死に対しては法律はおろか判例もないのではないでしょうか。で、安楽死ととらえるについてはどうかとなり、判例に照合して判断されるという手順です。警察の事情聴取はその確認でしょうね。この医者は信念で行なったと言っているようですが、これも軽率です。医療行為は一から十まで信頼関係で成立します。いかに医者がよかれと為した行為でも、受ける側が異を唱えればそれは不適当なものであったという判断がなされていくのです。いい結果が出れば誰も文句は言われないでしょう。そうでないからクレームが出るのです。火のないところには煙は立たないのです。つまり、問題の発端は、それがどんな問題であれ、医者の行為、言動、さらには独善といったところにあるのでしょうね。難しい問題だと棚上げするのではなく、医者は軽率な行動を慎めという結論ではありますまいか。生殺与奪の権利など医者にはもとよりないのですから。思い違いをするな、ですか。ううむ、今日は些かラジカル!
 話は変わって、西武のバッテリーいいですねぇ。湧井に炭谷、19歳と18際ですよ。それが、中村だの清原だのに堂々と渡り合うのです。胸がすきますねぇ。あのキャッチャー凄い奴なんでしょうね、使う伊東監督も偉いですが、この人が西武黄金時代のレギュラーキャッチャーだったというところにまた炭谷の凄さが問わず語りに浮かんでいます。どうかこのまま使ってやって欲しいと思います。そう思いますよねぇ?
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公安警察

2006-03-26 11:29:19 | Weblog
公安警察という単語を初めて知りました。治安維持法下の特高か憲兵かという嫌~な感じですが、それに近いものであるようです。具体的には、最近こちらの活動が活発になって、政治的なビラ配りをするだけでひっぱられる(拘束、取り調べされる)そうなのです。いや、ものの本に寄れば警察の本来の機能のうちにはこういう働きもあるとされています、保安警察作用というらしく、言論・集会・結社・選挙・危険物の取り締まりなどに関わる機能です。それに対する概念は行政警察作用(公共の安全と秩序を維持するために国民への強制、自由の制限を為す)と司法警察作用(犯罪の捜査等の刑事司法権発動)というそうです。ふむふむ、わからぬことでもないですね。保安作用、公安作用はそれはそれで平静な日常生活のためには必要な機能でしょう。でも、どれも、国民の安寧を保つためにと言う大義名分の元に許された、権力による国民への強制、国民の自由の制限ですから、すぐに度を超えがちになるもので、我々もその窮屈さには幸い敏感ですから、市民運動家達の如くイデオロギッシュに過敏ならずとも、行き過ぎには気づくものですが、敵もさるもので、ゆっくりそーっと範囲を拡げて来るというわけです。で、識者は、マスコミは、こういうことに感受性の強い人々は、政治的なビラの摘発という言論弾圧に繋がり行こうかという事態に、先に施行されている個人情報保護法により公的機関が例えば犯罪者の実名を公表しなくなったという現実などがオーバーラップしていき、すっかり隠された内側で権力の横暴無体が許されていく危険を嗅ぎつけているわけです。また先の判決で、情報取得先の秘匿が、相手が公務員であれば違法だという判決が出て、マスコミは一斉に反論しましたね、これが通ると誰も真実を喋ってくれなくなる、つまりは権力の嘘は全くの闇の中に葬られていくという危惧でした(もっとも、すぐ後の別の裁判ではその逆の判決が出ていましたが)。実際にこういう流れの中にいて、冒頭の情報を目にするに、ううむ、気味の悪いことと思うわけです。そしてさらに悪いことに、こういう変化は気づこうとしなければ気づきません、普通の市井人には直接今日の暮らしには影響のないことですから。ですから、市民活動家と自称する反政府、反国家を掲げるイデオロギッシュな連中のことだけなら、どうぞしっかりやってくれ、なのですが、その範囲がそうでない人々、我々のほうに拡がってくる危惧はやはり私達も感じていなければならないと思いますねぇ。個人情報保護法も、確かに一人歩きしすぎている観は強いですが、元々マスコミの行き過ぎた報道が法制定のきっかけであったはずです。そしてその裏には、いたずらに強い人権至上主義、主客趣意転倒した弱者の論理が控えていることも知らねばなりますまい。マスコミのマッチポンプという側面は確かにあり、どんなに政治的に偏向している者でも市民と称してその権利の侵害ばかりを糾弾するという、その論調自体が偏向している放送局もあり、我々は情報の真偽や偏りの有無を眉に唾しながら確かめねばならぬのでしょう。で、政治的ビラの話ですが、赤旗やら聖教新聞やらは範疇外なのでしょうか、内なのでしょうか。ううむ、後者は政府与党でありますから・・・。
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他人ごとのようですが

2006-03-25 08:37:54 | Weblog
仕事の関係で、この四月から高齢者虐待に係る法律が新たに施行されるそうです。つまり、幼児だけでなく高齢者も虐待から保護しようという趣旨でしょう。虐待は暴力とほぼ同一のものと考えていいのでしょうか、いわゆるDV domestic violence 家庭内暴力のイメージです。先日TVでこう解説していました「暴力にも種類がある、肉体的暴力だけでなく、精神的暴力、性的暴力、経済的暴力、社会的暴力など」。この暴力を虐待に差し替えてもそのまま通用しそうです。DVは夫が妻を殴る蹴るです。幼児は親が我が子を。高齢者は成人した子が我が親に対して。まぁ言えば、夫婦げんかは犬も食わない類の出来事、いたいけな抵抗のすべをもたない幼子を殴る蹴るは人倫に悖ると憤りも強いですが、しかし我が子に向けられてのものなら手の出しようもなく、後者は老いた親を殴る蹴るような子に育てた自業自得とも言えるわけです。いや、夫婦や親子の関係でなければ、暴力や虐待は立派な刑法上の罪ですからすぐに捕まるのです。特別な関係(夫婦や親子)だから権力は「民事に介入せず」と知らん顔をしていたわけです。昔からこの手の事例は多かった筈ですよね、人のやることですから。今まで世の中が相手にしてこなかっただけのことを、昨今マスコミが、学者が騒ぎ立てて、政治家達がその気になった(体裁を整えた)という経緯なのでしょう。だから何もかもが上っ面なぞるだけの対応なのです。これらの中では幼児の虐待が、普通の人間ならいちばん眉を顰める、同情や怒りを買う悪事なのでしょうが、それでもなくならないでしょう?理由は簡単、第一線の連中の腰が退けていること、踏み込めないこと、それは法律自体が不備であること、加害者の人権とやらを被害者の人権より優先するというくだらぬ風潮に媚びているからです。そして、この手の行為は人間の一つの性として誰でもが持っているからでしょう。恐ろしい、気味の悪いことですが、それを抑えおおせるか、隠し通せるかの差なのではないでしょうかね。ううむ。他人事のようではありますが、いやいやあなたの心にも悪魔は住んでいる、のです。そう思います。
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悠遠なる繰り返し

2006-03-24 08:37:29 | Weblog
受験生を送られた方々も多くいらっしゃいましょう、私もそうでした。三人目でしたので、慣れていたといえばそうなのでしょうが、母親を見ていると、いやいやそんなこと言っていると怒られるぞという緊迫感が漂い、思わずこちらも言葉少なくなるわ、音量を知らずに下げているわの臨戦モードでした。子が成長すれば誰もが経験することなのですが、やはり自分がその立場であった時の方がうんと楽でしたねぇ。記憶なんてものは自分の都合のいいように残っているものですから、自分がこの年の頃の記憶など全て脚色済みのものであるし、今この歳で考えることと18,9の子どもの考えることではこれまた経験の差が大きすぎてもともと比較の対象にはならぬこと、だから子が反発し言うことを聞こうとせぬのも、こちらの思わず知らずの説教口調が耳についてのことなればどれもこれもやむを得ぬことなのです。いえ、あなたのお子さんがあなたの言うことを素直に聞いてくれたのであれば、それはお子さんの性質であり才能であるし(おそらく優れたもの)、且つあなたの存在がお子さんにとって相当のものである証拠でしょうね。私はずっと反発していました。そして我が子もそのまんまです。ま、もっともあれこれ言いませんけれどね、世の父親の多くがそうであるように。何が言いたいのか、ですか。世の中はこうやって繰り返すばかりのことだということです。私が親に言われたように子に言ってます。子を叱るとき、夫婦げんかするとき、子どもの時に親が口にした言い方そのまんまを言っている自分に気づいたことはありませんか。私が親に反発したように子も逆らいます。だから、私のできることは高々親にしてもらったことを子にしてやることだけなのだ、ということです。ひっくり返せば、私がこの世に生きている意味(義務)は、少なくとも親にしてもらったことだけは子にしてやらねばならぬということだと思っています。偉そうにふんぞり返っても、所詮は自分の経験してきたことしか、自分の体の中にあることしか出てこないのです。そして、男はいくつになって幼稚で子供のままですが、女は高校生くらいになるともう十分に大人です、私達大人の男が考える事くらい全て見通されています、空威張りなんぞは端から見透かされていますよ。ううむ。一人一人の人生があり、そしてそれらをすっぽりと被う悠遠に繰り返される人の世の継続があり、私達はその流れに棹さすしかないのであります。今日もまた歩いていくしかないのですねぇ。
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言外の強要

2006-03-23 08:37:59 | Weblog
一雨毎に暖かくなるこの季節特有の気候なのですが、なんだか今年は雨が多いように思いませんか。彼岸も過ぎて、春はすぐそこまで来ていましょう。私は十分にひねくれ者ですので、目に付く文章やフレーズもそっちよりです。またニヤリとする文章を見つけました。「ボランティア活動が楽しくなったら、それは自己満足が先行しているのだから、止めた方がいい」「いい事するなんて、悪趣味だからよしなさい」いかがですか。今やボランティアといえば葵の御紋で、この行為は曇りなく正しく美しいものだから、反対はおろか賛同しない者も許さないという風潮ですよね。そして当然の波及敷衍としてボランティア活動する人こそが正しく真っ当な人なのだという評価。そしてこれまた当然の結果として、ボランティア活動する人の独断専行が許されていく。そしてやがて周りが鼻白み、倦み、飽きていく。この順番ですよね。どなたにでも覚えのある事実ですね。私は、何が嫌いかと言ってこの手の強要強制を一番嫌悪します。ので、こういう文章読むと嬉しくなります。いやいや、もちろんこの種類は皮肉風刺なのですよ、そのくらいはわかっています。何が引っかかるのかといえば、行為ではなくこういう行為をしようとする気持ちこそが価値があるのだ、そっちに感謝しなさい!という強要が見えるからです。僕たちは何も見返りを要求しない!と言われれば言われるほど、何だかなぁという思いが強くなるという皮肉です。ごめんなさい、ボランティアなどしたこともない者には、言葉が過ぎましたか。でも世の中には有償ボランティアなんてものも存在します。ううむ、これも言葉の一人歩き、形骸化の好例なのでしょうねぇ。
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人のふり見て

2006-03-22 08:34:17 | Weblog
凄い試合でしたねぇ、今までならああいう具合に寄ってこられたら簡単に土俵を割っていたのでしょうが(解説の野村がしきりに言っていたように)、9回は何だか涙が出るような劇的さがありました。やはりイチローでしたね。ずっと自分に周囲の目を引きつけて、言うべきをきちんと言って、きちりと答えを出す。全盛期のマイケルジョーダンの如く、そして長嶋の如くです。野球とバスケットとを同列には比較できないでしょうが、ここぞと言うときにイチローに打順が回ってくるところ、評論家の言う「そういう星の元に生まれた人」なのでしょう。穏健、謙虚の世界の王と熱いスピリットを溢れさせたスター・イチローに耳目が集中するのは当然のことでした。オリンピックより、サッカーより、野球は日本人に合った競技なのだと改めて皆知ったのではないでしょうか。面白いですもの。で、例によって斜に構えて一言。TV報道でキューバ人と思しき人がインタビューに答えて「キューバが一番だ。キューバにはプロは一人もいないのだから!」と、まくし立てていました。韓国のメディアは「6勝1敗のチームが5勝3敗のチームより順位が下とは何たること!」と結論しているそうです。ううむ。人の勝負に関する感情というのは人種や文化の差はないのです。あのキューバ人(おそらく)は、キューバが勝っていれば同じ理由で我がチームの優秀さを誇示し、日本を侮ったでしょう、プロがいて、あれだけ高給取りを揃えても我々の純粋な野球に対する気持ちには勝てないのだ、とかなんとか。韓国の理屈も、子どもの負け惜しみの域を出ませんね、リーグ戦とトーナメント戦はそういうもんですから。気持ちはわかりますけれども。ですから、10回やって何回勝つかでやってみたらいいですね一度。すれば実力のほどがより明確になると思います。とまれ、今回は日本が勝ったから日本のメディアもそういう負け惜しみを言わずにすんでいるだけなのでしょう。立場が変われば、アメリカの審判に対する非難やら、この大会に対する非難やら、挙げ句は松井や井口が悪者になったかも知れません、それと王采配。勝つと負けるとではこれだけ違うのだ、こんなもんだと断ずるのが通常なのですが、一方でこれが人の考え方なのですねぇ、つくづく思います。と、思い至れば、王監督の如く、山谷には相当に苦慮対応しながらも、鷹揚迫らずの態で通すということはきっと高い人格を示すのでしょう。我々凡人には、人のふり見て我がふり直せという教訓事ですが、レベルの違う人の考えることはきっと違うんでしょうねぇ。ううむ、道は遠いですなぁ。
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