柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

小泉劇場

2006-08-15 09:02:57 | Weblog
広島のブラウン監督がフェアプレーに欠けるチームとして中日を名指しし、それに落合が反発、告訴を辞さないと怒っているそうです。サイン盗みやらの狡い行為をアンフェアと表現しているもので、落合は「ルールの中でやっていること、企業努力である」とし、野球界全体がばかにされたと怒っています。ことほど左様に、フェアプレイとルール遵守とは似て異なるものなのです。ルールを守るだけではフェアプレイではないのです。狡いことをしない、卑怯なマネはしないという心構えのことです。スポーツマンシップとも言い換えられるのでしょう、相手を思い遣る心です。ルールを守りさえすればいいのだという形式上の遵法は、かのホリエモンを生み、村上ファンドの幼稚な顛末を招来させました。あの嫌な感じ、後味の悪さは記憶に新しいことですし、人々は溜飲を下げ「狡いことはできぬのだ」とどこかで安堵を感じていたはずです。誰かが言っている言葉ですが、フェアプレイは精神論です。その人の心根です。落合の言うように企業努力と位置づけるか、そんな手を使ってまでやることはないと一喝するか、その人の心根です。負けている側が言い立てると遠吠えの感を拭えませんが、その意気やよしなのではありましょう。しかしこういうことは、勝っている側、強い側がさらりと言ってのけるが格好いいことではあります。
 新聞各紙は終戦記念日に合わせて、そして近時の靖国論争をふまえてか戦争責任論を特集しています。特に読売新聞は強く示しています。もう61年も前のことをです。靖国問題がいつまでもくすぶるのは、東京裁判という戦勝国による敗戦国の裁きだけで、日本人がちゃんと決着をつけていないからだというところで、右も左もほぼ一致した認識のようですが、今更の感です。いかにも昔のことです。戦争を起こした責任、無理を知りつつ遂行継続した責任、敗戦した責任、多くの国民を亡くした責任等々どこを責めるかという問題から始まって、常に最後には天皇陛下の責任問題に及びうやむやのうちに終息する。天皇の責任に言及しながら、あの富田メモを重宝する論調。戦犯をどう裁くか論は不毛に思います。石原慎太郎が昔から言っていることですが、最も責められるべきは兵站の軽視だという論に与します。食料は現地調達せよなどという無茶が罷り通る、現地では当然の如く略奪の限りが尽くされる。戦死者の八割が餓死者だという戦慄する事実。多くの国民を亡くしたこと、そのこと自体は国が戦を選択したのですからやむなきことと思います、が、敵の待ちかまえる中に放り込まれ、国は逃げ道を作らず、その挙げ句に餓死、病死するしかなかった多くの兵隊達の無念。満州、朝鮮からの引き上げ者達の地獄。国が責任を表するとすればこの点であろうと私は思っています。しかし60年の歳月はいかにも長いことです。今更問うな、ではありません。検証するのなら、中韓の挑発にのらず、ぼんやりした議論でなく(軍国主義の復活などというあり得ないような言いがかりではなく)、この点あの点と区別する手法が要るのでしょう。現場を知る人が少なくなってくることもあわせてです。A級戦犯合祀の問題も、靖国神社本来の原義(誰々を祀るのか)を広く国民に知らしめることと、東京裁判史観是非論との分離とが必要だろうと思います。本来全く別の問題であることが同じ鍋の中で混ぜられ捏ねられているから、不毛なのです。むろんこの混乱が恣意的にもたらされているのだという言い方もできるわけですが。
 しかし、今日小泉さんがとうとう靖国参られましたね。安倍さんが来年「前例に沿って」堂々と参拝されれば、沈静しますね。麻生さんやら谷垣さんやらのような先送り論を中韓は待っているわけで、国内の反対論者達(加藤紘一のような)のよすがはアジア外交という名の中韓のご機嫌伺いですから、ひとつ決着したわけです、むろん連中ああだこうだと言い続けましょうが。ううむ、いよいよ安倍さんの心意気が問われるところ、なんだか羨ましい気がします。
コメント
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