柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

福祉という強制

2006-08-13 10:06:31 | Weblog
安倍さん、地元の下関で事実上の立候補宣言です。地元で第一声というのが、いかにも政治家らしくていいですね。私はあなた方に選ばれてここに居ます、ありがとうございます、という表現です。地元としても嬉しくないはずがないことですし、尚一層の後押しをしようとわき上がるわけです。こうやって流れが作られるのでしょうね、次は東京で正式に多くのプレスを前にして宣言する。順を踏む。こういう演出する人がいるわけです。勝つと見えているレース、いかに堅くきれいに作り上げるかです。伸るか反るかの勝負ではありません。かえって骨が折れることかも知れませんね、外野の戯言ながら。ちなみに、昨日は6人目の長州出身の宰相と書きましたが、8人目だそうです。訂正します。
 読売新聞のコラム(編集手帳)に終末期医療のことが書かれています。長く、今も議論の対象になっていることですが、余りに陳腐で実のないまとめなので噛みつきます。あらすじはこうです、昔は枯れ枝のような死体が多かったが、今は延命治療(要らぬ治療というニュアンスが行間にありありです)によってぶよぶよした死体が多くなった、枯れ枝のような死を選びたいという詩人の言を取り上げて、「自宅死亡は望むべくもないが、病院でも、それぞれの人の希望に沿った死の迎え方ができればと思う」とまとめます。異議申し立てるは二点。一つは、延命処置が医者の(医学の進歩などと総称される漠たる概念)恣意によるものであるかのごとき謂。そんなことされたくない人もいるのに、無理矢理ぶよぶよにされるのはいかがなものか、という言外の批判。病院で治療しながら枯れ枝のようにはなかなかなりません。ガンで、あれこれいじくり回された挙げ句に痩せて痩せてという特殊なケースを除けば、病院に運び込んだら治療の対象です。枯れ枝のようにされたら、あなた文句言いませんか?例えば、その人が病前に延命処置を拒否していたとしましょう、で家族がその旨を医者に伝えたとしましょう、その医者が私のような者ならその意に十分に沿ってさし上げます。医者と家族とが同じ思いであればそれもうまく行きます。が、そうでない場合の方が多いのです。まず医者に職業意識(正義感)溢れる場合。家族の思いが却下される場合です。これも抗えないでしょう、命は地球より重いんです!なんて目も眩むような正論を振り回されたら、黙るしかありませんから。果たしてぶよぶよにされます。この場合をコラム子は批判しているのですが、確かにこのケース多いはずです。病院に連れたことが間違いでした、ということです。もう一つは、後になって別の家族がクレームつけてくる場合です。治療開始当初は同居していた長男が延命処置を拒み医者も了解してその方向で進んでいたところが、遠くに住む姉さんがやってきて可哀想とやら大騒ぎする。医者としては要らぬトラブルは起こしたくないですから、しっかり型通りの治療を始める。果たしてぶよぶよになる。このケースの方が多いと思います。本人の意志などは全くの無力です。そうでしょう?本人の意識のない場合、喋れないほど弱っている場合にどうやって意思表示するんです?となると家族の意志です、医者が基準にするのは。でも一致しませんよ、皆口々に言いますから。よくあるのは、普段知らん顔している遠くに嫁いでいる長姉とか、面倒を弟に押しつけていた長男とかが、その場に限ってうろたえる(振りをする)、親思いの振りをする、大仰に叫ぶわけです。先に書いた正義の味方の医者と同様、周りがびっくりするような空っぽな博愛論をぶって振り回すわけです。で、しかたなく濃厚な治療を再開する。そういうケースです。誰の所為ですか?そういう意思決定を医者は曲げられません。「それぞれの人の希望に沿った死の迎え方」などは、身内が曲げていくのです。他人(医者)でも社会でも世間でもありませんよ。思い違いも甚だしいことです。
 二つ目は、自宅死亡は望むべくもないが、という前提。病院に連れ込むは誰の意志なのか、それは勝手な言い方じゃありませんかという違和感。自宅で死ぬことは誰にでもできることです。ここも思い違いが甚だしいです。病院に連れなければ済むことです。近くの内科医に往診を頼む、今や介護保険の網は十分に張り巡らされていますから、訪問看護などを利用する。すれば、自宅で死ねます。もちろんその為には家族には相当の覚悟が要ります、食事、下の世話に始まって、他人(医者やら介護スタッフ)が家に入ってくるストレス、様態悪化すれば本人の辛そうな姿をずっと見ていないとなりません。いや、ちゃんと看ておられる家は多いですよ、でも大変な努力です。それがいやだから(こういう人はそんなことできないと表現します。不可能と言い換えます、その気がないことを)、病院に運び込みます。そうじゃありませんか?そういう事情をも含んでの「自宅死亡は望むべくもない」であるなら(つまり、私は看ない、この人は自宅では死なせないという意思表示)病人の関係者(家族)としての責任をもっと重大に考えるべきであり、家族の意見を一致させることでしょう。病院に運び込むなら、預けるという意識が要りませんか?あなたの代わりに看ているわけです、病院も介護施設も。でもそうじゃないんでしょうね、こういう論を張る人にかかれば。医者が勝手に要らない治療をしてぶよぶよにしてしまうんでしょう。さてさて。自宅で死ぬことを望む人が多いとやら延命治療を望まない人が多いとかいうデータを掲げて、スパゲッティー症候群などど称して終末医療を揶揄する風潮は、見方を変えれば年寄りを人に預けているだけのことなんです。枯れ枝のようになるまで放っておけばいいのに、福祉という強制が不要の節介をするんです。それを当然としているから、自宅死亡は望むべくもないなんていう馬鹿馬鹿しい前提が出来上がるんです。諸兄、人に委せる以上は口出しせぬが常識じゃありませんか?
 
コメント
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