写真①:「普賢寺」の仁王門
=山口県光市室積8丁目で、2011年10月27日午前9時25分撮影
〈光市・町歩き〉 2
:「普賢寺」
26日夜は、温泉のある宿・「かんぽの宿光」(光市室積東ノ庄)に宿泊。翌27日朝、 平安時代中期・寛弘3年(1006年)の一条天皇のころ創建されたという臨済宗建仁寺派の名刹「普賢(禅)寺」(同市室積8丁目)を訪れました。創建当時は天台宗のお寺でしたが、室町時代後期ごろに臨済宗となりました。山号は、峨嵋山(がびさん)。
寛弘4年(1007年)、播州書写山円教寺の住職・性空上人(しょうくうしょうにん)が開基。本尊は、理知・慈悲をつかさどり、延命の徳を備える普賢菩薩像で、漁師が室積沖の海中から出現したと話した霊像を性空上人が安置されたといわれ、古くから「海の菩薩」(海の守護仏)として全国各地から広い信仰を集めてきたお寺という。江戸時代から明治初年の版籍訪韓までは、毛利公の祈願所で寺格の高いお手普請寺でした。開基性空上人の入寂の日をとって定めたという毎年5月14,15日の「普賢祭」には、露店市が立つ〝普賢市〟が開かれています。
境内入り口にある仁王門=写真①=は、江戸時代後期・寛政10年(1798年)の建立。両脇には、忿怒(ふんぬ)の形相で仏敵を払う雄大かつ怪奇な木刻の仁王像=写真②=が立ち、楼上には釈迦の命により正法を守り、衆生を導く16人の大阿羅漢・「十六羅漢像」が安置されています。
写真②:仁王門の脇に立つ木刻の仁王像
=27日午前9時50分撮影
境内を歩き、石彫りの象=写真③=が台座に載っているのが目に留まりました。白象に騎乗するとされる普賢菩薩にちなんだ彫像でしょう。
写真③:普賢菩薩が騎乗するとされる象の石象
=27日午前9時25分撮影
本尊の普賢菩薩像を安置する「普賢菩薩堂」=写真④=は大正6年に改築され、平成5年に大修理されました。
写真④:本尊の普賢菩薩像が安置されている「普賢菩薩堂」
=27日午前9時25分撮影
「普賢菩薩堂」の参拝所に立ち、頭上を見ると十二支を描いた古びた方位盤=写真⑤=がありました。色あせた感じですが、9月18日に 大川市酒見の「風浪宮」拝殿前で目にした東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれた古風な方位盤に似ていると思いました。
写真⑤:十二支を描いた古びた方位盤
=27日午前9時30分撮影
境内にある池では、甲羅干しする5匹の亀=写真⑥=が気持ち良さそう。
写真⑥:気持ち良さそうに甲羅干しする5匹の亀
=27日午前9時35分撮影
池の近くに「普賢寺」の山門=写真⑦=が建っています。
写真⑦:「普賢寺」の山門
=27日午前9時35分撮影
「普賢寺」の山門を潜ると、どっしりとした造りの本堂=写真⑧=が見えました。
写真⑧:どっしりとした造りの「普賢寺」本堂
=27日午前9時35分撮影
本堂の南側には、山口県指定名勝「普賢寺庭園」=写真⑨=がありました。正方形の地割(455平方㍍)をもった枯山水庭園で、周囲の緑地を含めた広さは2,177平方㍍あり、大きな自然石を用いた石組の構成が特色です。暖帯性樹林が国の天然記念物に指定されている峨嵋山(標高117㍍)を背景に、前面を池に見立てて、東南部の石組の枯滝を中心にして両端に組んだ豪華、雄大な石組が、枯山水庭園出現初期の室町時代後期の作庭という。雪舟が築庭したと伝承され、枯山水庭園では県内最古となっています。
写真⑨:雪舟が築庭したと伝承されている山口県指定名勝「普賢寺庭園」
=27日午前9時40分撮影
本堂の東側敷地には、赤門=写真⑩=が建っています。江戸時代初期の1630年代に建てられたとみられ、〝開かずの門〟ともいわれています。 鬼瓦には毛利家の家紋があり、普賢寺が江戸初期の元禄15年(1702年)に再建され、毛利氏のお手普請寺でもあったなごりを残す建造物です。
写真⑩:本堂の東側敷地に建つ赤門
=27日午前9時40分撮影
「普賢寺」山門の近くの境内には、落葉高木・センダン(センダン科)の巨木(樹高21㍍)=写真⑪=がそびえており、あまりの高さに目を見張りました。
写真⑪:樹高21㍍というセンダンの巨木
=27日午前9時45分撮影
「普賢寺」位置図