写真①:〝神宿る島〟・「沖ノ島」方向の玄界灘の風景
=福津市奴山の「大現寺1号池」堤下農道で、2017年11月19日午後4時20分撮影
・連載エッセー『一木一草』
第56回:「万葉古道」から見えるか「沖ノ島」
福津市奴山の「万葉古道・名児山越え」上り口で
玄界海灘沖の〝神宿る島〟・「沖ノ島」は見えるか
1287年前の11月、大宰府から奈良の都へ帰る途中の万葉歌人・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)も、ここから約60Km離れた玄界灘に浮かぶ〝神宿る島〟・「沖ノ島」(福岡県宗像市)を眺めることができ、長旅の安全を祈ったのでしょうか。
私が所属する福津市のまちづくりボランティア団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が11月14日、「第17回〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」として開催した「万葉古道の植物探訪」で、坂上郎女が通ったという福津市奴山(ぬやま)と宗像市との境にある名児山(なごやま)を越える古代官道・〝名児山越え〟の上り口の「大現寺1号池」堤下農道を訪れた際、もしや「沖ノ島」が見えるのではと参加者10人で西方の玄海灘を遠望しましたが、水平線上に『神宿る島』は見ることができませんでした。
19日午後4時20分、「大現寺1号池」堤下農道を再訪した際も、玄海灘の水平線上に「沖ノ島」は確認できずじまいです。
大宰帥(だざいのそち。大宰府の長官)大伴旅人(おおとものたびと)の異母妹の大伴坂上郎女は、日本最古の和歌集『万葉集』に女流歌人として最も多い84首の歌を残しています。彼女が奈良時代の天平2年(730年)11月、古代官道・〝名児山越え〟を通った際、詠んで『万葉集』(巻6 963番)に収録された長歌は、次の通りです。
〈大汝(おおなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神こそは 名づけ始(そ)めけめ
名のみを 名児山(なごやま)と負ひて わが恋の 千重の一重も 慰めなくに〉
歌の意味を現代語訳すると、〈大汝の神と少彦名の神が名付けたに違いない名児山は、〝心が和む山〟という意味を持ちながら、私の悩む恋心の千分の一さえ慰めてはくれない〉。大汝(大国主神)と少彦名(少名毘古那神)は、日本の国造りをした二柱の神です。
「ふるさと塾・万葉古道の植物探訪」では、「海とまちなみの会」会員や福岡、古賀、福津3市の『万葉集』ファン、登山愛好者の男女10人が、標高約40~88㍍の起伏に富む細い山道約5百㍍を約40分かけて歩きました=写真②=。イノシシの通った跡もあり、突然の獣との遭遇も警戒しつつ、坂上郎女も見かけたと思われる黄色いアブラギクの花や、マムシグサの赤く熟れた実など路傍に自生していた野草や花などを調べながらフットパスウオークを楽しみ、名児山を詠んだ長歌の歌心に想いを馳せました。
写真②:イノシシが出そうな細い山道を上る「万葉古道の植物探訪」参加の人たち
=福津市の「万葉古道・名児山越え」で、2017年11月14日午前10時50分撮影
〝名児山越え〟をして宗像市田島に通じる県道502号線に出た参加者たちは、近くの福津市勝浦の「あんずの里運動公園」道路脇に旧津屋崎町(現福津市)が平成11年(1999年)に建てた坂上郎女の長歌を刻んだ「名児山万葉歌碑」を見学しました。
万葉歌人・坂上郎女は「沖ノ島」を見て遥拝できたか
天平2年12月大納言に昇進し帰京することになった大伴旅人より一足先に旅立った坂上郎女は、〝名児山越え〟を通って、海北道中の守護神、道主貴(みちぬしのむち)が鎮座する宗像大社に都までの長旅の安全を祈願しに寄ったのでしょう。宗像3女神が、古代海路の守護神として朝廷に篤く信仰されていたから。坂上郎女が、〝名児山越え〟の上り口から「沖ノ島」を遠望できたのであれば、田心姫神(たごりひめのかみ)を遥拝して旅のご加護を祈ったのはないでしょうか。