写真①:「萬松山」と刻まれた伯爵柳原義光(左下に刻印)の揮毫石碑
=福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」境内で、2011年11月24日午後3時25分撮影
ガイド養成講座の現地研修で発見
境内に伯爵柳原義光の揮毫石碑が建っていました!
―福津市津屋崎の「新泉岳寺」
私が所属している福津市津屋崎の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が主催している第3期ボランティアガイド養成講座8日目の現地研修で、24日午後訪れた同市天神町の「新泉岳寺」境内に柳原白蓮の兄、伯爵柳原義光の揮毫石碑=写真①=があるのを研修参加者らが発見しました。
「新泉岳寺」は、地元実業家の児玉恒次郎氏が、浪曲師・桃中軒雲右衛門の赤穂義士を扱った浪曲に感動し、大正2年(1913年)に墓地の一角の約280坪に建てた赤穂浪士(四十七士)の墓です。東京都港区高輪の「泉岳寺」から許可を得て、寺号と義士47人の墓砂を分霊としてもらい受けてカメの中に砂を入れ、「萬(万)松山新泉岳寺」として祀っています。児玉氏は明治40年(1907年)、津屋崎の渡半島に〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門らと「活洲場(いけすば)」を開設するなど町の観光開発を手がけました。大正時代にあった寺のお堂は、戦前になくなっています。
伊藤伝右衛門は明治44年(1911年)、伯爵柳原前光の次女で〝筑紫の女王〟と称された才媛歌人の柳原白蓮(本名子=あきこ=)と再婚。白蓮は、大正10年10月、恋人の東京帝大生宮崎龍介のもとへ出奔しています。「新泉岳寺」が建立された大正2年当時、児玉恒次郎氏は「活洲場」開設で親交があったと見られる伝右衛門を通じて伯爵柳原前光の長男義光氏に、「新泉岳寺」の山号・「萬松山」の揮毫を依頼して石碑=写真②=に刻んだとも思われます。石碑の左下に「伯爵柳原義光」の刻印が、はっきり読み取れます。
写真②:左下に伯爵柳原義光の刻印がある揮毫石碑
=「新泉岳寺」境内で、24日午後3時25分撮影
面白いことに、児玉氏は九州日報(西日本新聞の前身)の社長兼主筆・福本日南作の『義士銘々伝』を語る浪曲師に登用した桃中軒雲右衛門が、浪花節で自伝を語り歩いていた弟子で熊本県生まれの宮崎滔天(とうてん)の紹介で九州日報に売り込み、明治36年(1903年)に義士伝『神埼与五郎東下り』を博多で興業、大入りの好評を博したことです。後に日本で孫文を支援し、〈辛亥革命〉を支えた革命家となった滔天。その長男の龍介と白蓮が逃避行する前から、児玉氏は雲右衛門を通じて滔天とも懇意な関係だったと見られます。
いずれにせよ、この「新泉岳寺」境内に白蓮の兄柳原伯爵の揮毫を刻印したと見られる石碑が建っているとは、ビッグニュースです。建立の経緯を追究する必要を感じます。