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吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2011年11月29日/〈日記〉444・「天神橋」架け替え工事始まる

2011-11-29 06:36:31 | 日記

 

 

写真①:架け替え工事が始まった「天神橋」(「新川」上流から写す。右は廃業した割烹旅館・旧「魚正」) 

福津市津屋崎天神町で、2011年11月28日午後3時10分撮影

 

津屋崎・「天神橋」の架け替え工事始まる

3月まで「新川」に架かる往還は通行禁止に

――福津市天神町

 

福津市津屋崎天神町の往還の「新川」に架かる「天神橋」の架け替え工事が、11月28日から本格的に始まりました=写真①=

 

「天神橋」は旧津屋崎町時代の昭和28年(1953年)5月28日、改修工事が完成。私が8歳の津屋崎小学校3年生の時です。8月の誕生日で9歳になる3か月前でした。「天神橋」の「新川」下流の町道「津屋崎海岸線」に「新天橋」が完成したのが、同39年(1964年)です。「津屋崎海岸線」は都市計画道路として整備され、同42年(1967年)に県道渡―津屋崎線(通称・海岸道路)に昇格しました。

 

「天神橋」の架け替え工事は、平成24年(2012年)3月下旬まで行われます。それまで同橋の往還は通行禁止で、「新川」下流の海岸道路(県道渡―津屋崎線)の「新天橋」を迂回しなければなりません=写真②=

 

 

写真②:通りぬけできなくなった「天神橋」(向こう。右は廃業した旧「魚正」)

福津市津屋崎天神町で、28日午後2時20分撮影

 

改修前の旧「天神橋」で私がカメラに収まった写真が、子供時代のアルバムに貼ってあります=写真③=。改修工事が完成した昭和28年より前で、私が津屋崎町宮司の「聖愛幼稚園」園児時代の夏に撮影したようです。左手に花火を持った私の左に次姉艶子が、右に長姉冨美子(7月他界)が浴衣姿で写っています。橋の上で涼みながら、花火遊びを楽しんだひとこまを、だれかが撮ってくれたようです。

 

写真③:旧「天神橋」で次姉艶子(左端)と長姉冨美子に挟まれて写った私

=私の子供時代のアルバムから

 

 さて、架け替えられる新しい「天神橋」は、どんな形に生まれかわるのでしょうか。デザインが、気になります。

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2011年11月26日/〈日記〉442・伯爵柳原義光と児玉恒次郎

2011-11-26 10:18:49 | 日記

  

写真①:山号「萬松山」の揮毫石碑に刻まれた伯爵柳原義光」の6文字

福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」で、2011年11月26日撮影

 

児玉恒次郎氏が伊藤伝右衛門を介して依頼か

山号・「萬松山」石碑の柳原義光伯爵揮毫

――福津市津屋崎・「新泉岳寺」

 

福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」境内で見つかった柳原白蓮の兄、柳原義光(やなぎわら・よしみつ)伯爵の揮毫石碑=写真①=について、同寺を建てた地元実業家の児玉恒次郎氏との関連を物語る史料は今のところ見当たりません。

 

柳原義光伯爵は明治9年(1876年)、伯爵柳原前光(さきみつ)の長男として生まれ、昭和21年(1946年)に他界。妹の才媛歌人・柳原白蓮(本名子=あきこ=)が愛人と駆け落ちしたあと、貴族院議員を引責辞職しています。

 

児玉氏は明治40年(1907年)、〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門らと津屋崎の渡半島に「活洲場(いけすば)」を開設。伝右衛門が同44年(1911年)に白蓮と再婚したことから、伝右衛門を介して柳原義光伯爵との接点ができ、「新泉岳寺」の山号「萬松山」石碑=写真②=の揮毫を依頼できたのではないでしょうか。児玉氏が大正2年(1913年)、数え48歳で「新泉岳寺」を建てた当時、柳原伯爵は37歳でした。

 

 

写真②:境内に建つ伯爵柳原義光揮毫の山号「萬松山」の石碑

=「新泉岳寺」で、25日撮影

 

児玉氏は、津屋崎で明治の老舗旅館「不老館を経営し、伝右衛門夫人が宿泊していたという話も伝わっています「活洲場」開設をはじめ旧津屋崎町の観光開発に貢献し、明治36年(1903年)に浪曲師桃中軒雲右衛門の義士伝『神埼与五郎東下り』を博多で興業、大入りの好評を博し、同40年(1907年)には東京での義士伝興行でも1か月の大入りを続け、東京高輪の「泉岳寺」から特別に許可を得て、寺号と四十七義士の墓砂を分霊として持ち帰って「新泉岳寺」を建設しました。

 

柳原義光伯爵の揮毫石碑が、なぜ「新泉岳寺」にあるのか。児玉氏の人物像についても、興味がわいてきました。探究を続けます。

 

〈お詫び〉11月24日付〈日記〉440の速報記事では「新泉岳寺」に伯爵柳原前光の揮毫石碑発見――と誤記していました。光の関係で「義」の草書体を「前」と見誤っており、近くから写真を撮り、「義」の字と確認しました。これに伴い、同〈日記〉440と翌25日付〈日記〉441・「不老館」と児玉恒次郎の速報記事の関係個所も訂正しました。

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2011年11月25日/〈日記〉441・「不老館」と児玉恒次郎

2011-11-25 06:30:02 | 日記

 

写真①:伊藤伝右衛門夫人が泊まったという明治の老舗旅館「不老館」

=吉村青春著『津屋崎学』から

 

児玉恒次郎氏が経営していた明治の老舗旅館「不老館」

「伊藤伝右衛門夫人が宿泊」の〝証言〟裏付けか

津屋崎・「新泉岳寺」で発見の柳原義光伯爵揮毫石碑から推論 

 

福津市津屋崎の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が主催した第3期ボランティアガイド養成講座8日目の現地研修で24日、同市天神町の「新泉岳寺」境内に柳原白蓮の兄、伯爵柳原義光の揮毫石碑が発見されたのを機に、同寺を大正2年(1913年)に建てた地元実業家の児玉恒次郎氏が、津屋崎で明治の老舗旅館「不老館」=写真①=を経営していたことを思い出しました。これで、「不老館」に〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門夫人が宿泊していたという話も信憑性が裏付けられた気がします

 

伝右衛門夫人が宿泊していたという〝証言者〟は、私が所属している「海とまちなみの会」の最長老ガイド・津崎米夫さん(大正13年1月生まれの87歳、福津市津屋崎在住)。津崎さんは津屋崎東舟津の海辺の「玉乃井旅館」東側にあった明治の老舗旅館・「不老館」=写真②=に伝右衛門夫人が泊まったと、子供のころ人づてに聞いています。明治43年(1910年)に45歳で亡くなったハル夫人だったのか、翌44年再婚した才媛歌人の白蓮(びゃくれん。本名柳原子=あきこ=。伯爵柳原前光の次女)夫人なのかは不明。「不老館」の建物も、今は残されていません。

 

 

写真②:筑前津屋崎町(潮湯御宿)不老館=昭和初期の写真(吉村青春著『津屋崎学』から=津崎米夫氏提供)

 

児玉恒次郎氏が旧津屋崎町の観光開発に貢献した業績として、伝右衛門らと渡半島突端の蛭子元(えびすもと)での「活洲場(いけすば)」開設のほか、潮湯御宿「不老館」の経営が知られています

 

「新泉岳寺」境内に「楠樹 還暦祝賀記念 児玉恒次郎」と刻まれた石碑=写真③=が建っています。側面に「大正十五年 九月二十二日 誕生日植之」と刻まれています。数え年61歳の還暦記念とありますから、同寺を建てた大正2年(1913年)は数え48歳だったことになります。伝右衛門は、大正2年は54歳で、翌3年には大正鉱業株式会社を設立して社長に就任していますから、児玉氏にとっては兄貴格の実業家だったのかもしれません。

 

 

写真③:境内に建つ「楠樹 還暦祝賀記念 児玉恒次郎」と刻まれた石碑

    =「新泉岳寺」で、2011年11月24日撮影

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2011年11月24日/〈日記〉440・「新泉岳寺」に伯爵柳原義光の揮毫石碑発見

2011-11-24 21:43:46 | 日記

  

写真①:「松山」と刻まれた伯爵柳原義光(左下に刻印)の揮毫石碑

   =福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」境内で、2011年11月24日午後3時25分撮影

 

ガイド養成講座の現地研修で発見

境内に伯爵柳原義光の揮毫石碑が建っていました!

―福津市津屋崎の「新泉岳寺」

 

私が所属している福津市津屋崎の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が主催している第3期ボランティアガイド養成講座8日目の現地研修で、24日午後訪れた同市天神町の「新泉岳寺」境内に柳原白蓮の兄、伯爵柳原義光の揮毫石碑=写真①=があるのを研修参加者らが発見しました。

 

「新泉岳寺」は、地元実業家の児玉恒次郎氏が、浪曲師・桃中軒雲右衛門の赤穂義士を扱った浪曲に感動し、大正2年(1913年)に墓地の一角の約280坪に建てた赤穂浪士(四十七士)の墓です。東京都港区高輪の「泉岳寺」から許可を得て、寺号と義士47人の墓砂を分霊としてもらい受けてカメの中に砂を入れ、「萬(万)松山新泉岳寺」として祀っています。児玉氏は明治40年(1907年)、津屋崎の渡半島に〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門らと「活洲場(いけすば)」を開設するなど町の観光開発を手がけました。大正時代にあった寺のお堂は、戦前になくなっています。

 

伊藤伝右衛門は明治44年(1911年)、伯爵柳原前光の次女で〝筑紫の女王〟と称された才媛歌人の柳原白蓮(本名子=あきこ=)と再婚。白蓮は、大正10年10月、恋人の東京帝大生宮崎龍介のもとへ出奔しています。「新泉岳寺」が建立された大正2年当時、児玉恒次郎氏は「活洲場」開設で親交があったと見られる伝右衛門を通じて伯爵柳原前光の長男義光氏に、「新泉岳寺」の山号・「萬松山」の揮毫を依頼して石碑=写真②=に刻んだとも思われます。石碑の左下に「伯爵柳原義光」の刻印が、はっきり読み取れます。

 

 

写真②:左下に伯爵柳原義光の刻印がある揮毫石碑

   =「新泉岳寺」境内で、24日午後3時25分撮影

 

面白いことに、児玉氏は九州日報(西日本新聞の前身)の社長兼主筆・福本日南作の『義士銘々伝』を語る浪曲師に登用した桃中軒雲右衛門が、浪花節で自伝を語り歩いていた弟子で熊本県生まれの宮崎滔天(とうてん)の紹介で九州日報に売り込み、明治36年(1903年)に義士伝『神埼与五郎東下り』を博多で興業、大入りの好評を博したことです。後に日本で孫文を支援し、〈辛亥革命〉を支えた革命家となった滔天。その長男の龍介と白蓮が逃避行する前から、児玉氏は雲右衛門を通じて滔天とも懇意な関係だったと見られます。

 

いずれにせよ、この「新泉岳寺」境内に白蓮の兄柳原伯爵の揮毫を刻印したと見られる石碑が建っているとは、ビッグニュースです。建立の経緯を追究する必要を感じます。

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2011年11月22日/〈日記〉439・西日本新聞記事で『津屋崎学』を紹介

2011-11-22 03:32:46 | 日記

 

 

写真①:『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  Guide』第9版上製本の表紙

 

11月22日の西日本新聞朝刊記事で紹介されました
拙書『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  Guide

 

津屋崎の郷土史と自然のガイド本である拙書『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  Guide』(B5判カラー、314㌻。非売品)=写真①=が、きょう11月22日付西日本新聞朝刊記事で紹介されました。「故郷の魅力満載『津屋崎学』 まちおこし団体の吉村さん刊行」の見出しで、同新聞社インターネット・ニュースにもアップしていただきました。本書が郷土の素晴らしさを多くの方に知っていただくきっかけになれば嬉しいです。

 

 『津屋崎学』は、インターネットのポータルサイト「goo」に連載した吉村青春ブログ「津屋崎センゲン」http://blog.goo.ne.jp/magpie03の『津屋崎学』記事をもとに、東京にある発行所・Obunest(オブネスト)=ソフト開発のイースト株式会社および印刷会社の欧文印刷の共同事業名=で書籍化した津屋崎の郷土史と自然のガイド本です。第1版並製本を2月12日に発行、私が所属している福津市の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」のボランテイアガイド養成講座の受講者教本として実費頒布(並製本7,400円、上製本14,000円)しています。

 

収録した記事は、「第1章 津屋崎の魅力」から始め、「第2章 津屋崎塩田の軌跡~津屋崎は塩で保(も)つ~」、「第3章 〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門と津屋崎」や、「第16章 卯建と鏝絵の町家巡り」、小説やテレビ・ドラマに描かれた津屋崎、失われた町家、〝幻の津屋崎鉄道〟などを紹介した「第18章 津屋崎よもやま話」、「第19章 津屋崎の食文化」まで全19章で構成したあと、「津屋崎歴史年表」を掲載。

 

解説記事に写真402枚付き

 

明治創業の荒物屋・旧「乙藤商店」や旧「田中薬局」など古い町家の様子と、「豊村酒造」=写真②=の鏝絵、旧「麦屋惣平衛邸」の卯建、「津屋崎干潟」に渡来する冬鳥・クロツラヘラサギ、東京で撮影した泉岳寺や東郷神社、庚申信仰の柴又帝釈天も含め、平成15年から撮影した郷土の祭りや社寺、石碑などの写真402枚と地図60枚付きで分りやすく表現しています。

 

 

写真②:「第6章 明治の津屋崎」の「第1節 豊村酒造」の掲載ページ

 

「海とまちなみの会」の第3期「〈津屋崎千軒そうつこう〉ガイド養成講座」(参加無料)は7月からスタート、11月24日(木)午後2時から第9回講義(新泉岳寺、東郷公園、東郷神社)を福津市文化会館2階・視聴覚室で行います。養成講座は、12月15日(木)の第10回講義(宮地嶽神社)で修了です。講師は、不肖私と「海とまちなみの会」ガイドなどが担当。お問い合わせは、事務局・吉村(Email:yosi3019@sage.ocn.ne.jp)へ、氏名、住所、年齢、電話番号をメールでお願いします。

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2011年11月16日/〈日記〉438・「塩倉庫」文化財指定へ審議進める

2011-11-16 12:27:10 | 日記

  

写真:通称・「塩倉庫」(熊本塩務局津屋崎出張所庁舎附属文庫)

     =福津市津屋崎土居で、2011年11月16日撮影 

 

 福津市土居(津屋崎4丁目)にある赤煉瓦(レンガ)造りの通称「塩倉庫」=写真=について、市の文化財に指定して残せないかとの申請を受けた市教育委員会が文化財保護審議会で審査していましたが、今後、建築専門家に意見を聞いたうえで市文化財に指定する審議を進めることになりました。市教委では、長期的な維持管理の対策が必要として、関係機関と検討していくという。

 

通称「塩倉庫」は、切妻造平屋約25平方㍍の建物。政府が日露戦争の軍費調達のため明治38年(1905年)に製塩から販売まで管理する塩の専売制をしき、翌39年(1906年)に建設した熊本塩務局津屋崎出張所庁舎附属文庫(文書庫)です。江戸時代から製塩を続けてきた津屋崎の塩田が、同44年(1911年)に廃止になるまで局の重要文書を保管していました。ほかに庁舎、塩倉などの施設が建てられたとみられますが、現存しているのは同文庫と荷揚場だけ。

 

「塩倉庫」は、江戸時代から〈津屋崎千軒〉の繁栄を支えた筑前の製塩量の90%を占める福岡藩直営の「津屋崎塩田」と、明治の〝津屋崎は塩で保(も)つ〟といわれた製塩の歴史を今に伝える貴重な建物です。老朽化が進み、取り壊しも検討されていましたが、福津市の文化財に指定して残せないかと平成21年12月、指定申請を受けた市教育委員会が文化財保護審議会で現地視察や、担当職員が下関と岡山県玉野市に現存する建物の構造・保存状況の現地確認を行い、審査を進めていました。

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2011年11月6日/〈日記〉437・津屋崎千軒まちなみワークショップ

2011-11-06 05:40:07 | 日記

 

写真①:〈津屋崎千軒〉通りにある福津市まちおこしセンター「津屋崎千軒なごみ」 

 

 かつて千軒も町家が並ぶほど栄えたといわれる〈津屋崎千軒〉の情緒あるまちなみを未来に継承していくために考えようと、福津市主催の「第1回津屋崎千軒まちなみガイドライン作成のためのワークショップ」が、11月5日午前10時から同市津屋崎3の市まちおこしセンター「津屋崎千軒なごみ」=写真①=で開かれました。

 

福津市は、策定した市景観マスタープラン(2008-2017年)の「景観まちづくりの基本方針」に基づき、住民の協力のもと「景観の自主的ルールづくり」を津屋崎千軒などで先導的に行う計画です。津屋崎千軒のガイドライン作りで、「福津らしい景観」についての市民の合意形成と、それを守るためのルール作りへの第一歩を踏み出します。都市計画法に基づく「津屋崎都市計画」では、江戸時代からの歴史を感じさせられる建物が並ぶ津屋崎千軒がある津屋崎地域は、歴史的まちなみを生かしたまちづくりや低層住宅が主体の地域の現状を考慮して建物の高さを規制する「高度地区」の地域指定案を告示したのに続いて、12年度中に景観の設定を計画する「津屋崎千軒ガイドライン」策定を目指しています。

 

この日のワークショップは、市都市計画課が住民参加で「景観の自主的ルールづくり」をと計画、08年に〈津屋崎千軒〉の建物調査を行った田上健一・九州大学大学院芸術工学研究院准教授(建築計画・建築設計)や同大学院生と、私を含め市の公募に応じた市民ら計約30人が参加。田上准教授から建物、樹木などの特徴からまちなみ景観を読み取り調査する要領について説明を受けた参加者は、3グループに分れて小雨の中を約40分、町歩き=写真②=しました。

 

 

 写真②:〈津屋崎千軒〉の景観を読み取る町歩き調査(向こうは「豊村酒造」)

    =福津市津屋崎4丁目で、2011年11月5日午前10時50分撮影

 

町歩きのあと「津屋崎千軒なごみ」に戻り、3グループ別に読み取った景観の情報を模造紙にまとめ、調査結果について「家の窓はサッシより格子の方がまちなみに合う」、「景観を損なう電柱は無い方がいい」などと意見発表をしました=写真③=。

 

 

 写真③:模造紙に写真を貼って発表された〈津屋崎千軒〉の特徴

=「津屋崎千軒なごみ」で

 

市は12月3日、これからのまちなみについて考える第2回ワークショップを開いたあと、12年度に第3、第4回ワークショップを開いてガイドラインを作成、景観重点整備地区を指定してまちづくり計画に取り組みたいとしています。

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2011年9月21日/〈日記〉436・公立図書館3館に『津屋崎学』収蔵

2011-09-21 09:02:00 | 日記

 

 

写真①:『津屋崎学』第9版上製本の表紙

     =福津市津屋崎の拙宅で、2011年9月21日撮影 

 

福津市立、福岡県立、国立国会各図書館に収蔵

『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  Guide

閲覧できるようになりました

 

 古里・津屋崎の素晴らしさを子や孫の世代に伝えたいと1冊の本にまとめた『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  GuideB5判カラー、314㌻。非売品)が、9月21日までに公立図書館3館に収蔵され、閲覧できるようになりました。福津市立図書館と、福岡県立図書館(福岡市)、国立国会図書館(東京)で、いずれも7月27日に発行した『津屋崎学』第7版上製本を寄贈したものです。東京や福岡在住で津屋崎ゆかりの方にご覧いただければと願っています。

 

 『津屋崎学』は、インターネットのポータルサイト「goo」に連載した吉村青春ブログ「津屋崎センゲン」http://blog.goo.ne.jp/magpie03の『津屋崎学』記事をもとに、東京にある発行所・Obunest(オブネスト)=ソフト開発のイースト株式会社および印刷会社の欧文印刷の共同事業名=で書籍化した津屋崎の郷土史と自然のガイド本です。第1版並製本(B5判カラー、432㌻)を2月12日に発行、私が所属している福津市の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」のボランテイアガイド養成講座の受講者教本として実費頒布(並製本7,400円、上製本14,000円)しています。

 

収録した記事は、「第1章 津屋崎の魅力」から始め、「第2章 津屋崎塩田の軌跡~津屋崎は塩で保(も)つ~」=写真②=、「第3章 〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門と津屋崎」や、「第16章 卯建と鏝絵の町家巡り」、小説やテレビ・ドラマに描かれた津屋崎、失われた町家、〝幻の津屋崎鉄道〟などを紹介した「第18章 津屋崎よもやま話」、「第19章 津屋崎の食文化」まで全19章で構成したあと、「津屋崎歴史年表」を掲載。

  

写真②:「第2章 津屋崎塩田の軌跡」の「第2節 通称『塩倉庫』」の掲載ページ

 

解説記事に写真402枚付き

 

明治創業の荒物屋・旧「乙藤商店」や旧「田中薬局」など古い町家の様子と、「豊村酒造」=写真③=の鏝絵、旧「麦屋惣平衛邸」の卯建、「津屋崎干潟」に渡来する冬鳥・クロツラヘラサギ、東京で撮影した泉岳寺や東郷神社、庚申信仰の柴又帝釈天も含め、平成15年から撮影した郷土の祭りや社寺、石碑などの写真402枚と地図60枚付きで分りやすく表現しています。本書で、郷土の素晴らしさを多くの方に知っていただければ嬉しく存じます。

 

 

写真③:「第6章 明治の津屋崎」の「第1節 豊村酒造」の掲載ページ

 

「海とまちなみの会」の第3期「〈津屋崎千軒そうつこう〉ガイド養成講座」(参加無料)は7月からスタート、あす22日午後2時から第5回講義「〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門と津屋崎」を福津市文化会館2階・視聴覚室で約40分行ったあと、伝右衛門が明治41年に渡半島の曽根の鼻に築いた「活洲場跡」や宮地嶽神社に寄贈した鳥居と石垣などを車で見て回り、現地研修します。養成講座は、12月15日までの原則毎月第3,第4木曜日に計10回開講して修了です。講師は、不肖私と「海とまちなみの会」ガイドなどが担当します。問い合わせされる方は、事務局・吉村(Email:yosi3019@sage.ocn.ne.jp)へ、氏名、住所、年齢、電話番号をメールでご連絡下さい。

 

 10月以降の講義と現地研修の内容は、次の通りです。

第6回講義:10月13日=津屋崎馬車鉄道と在自唐坊跡遺跡
第7回講義:10月20日=津屋崎古墳群
第8回講義:11月17日=貝寄せの浜、アカウミガメ、カブトガニ、朝鮮通信使と相島交流の石碑
第9回講義:11月24日=新泉岳寺、東郷公園、東郷神社
第10回講義:12月15日=宮地嶽神社、クロツラヘラサギ、ニッポンバラタナゴ

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2011年9月15日/〈日記〉435:「森麻季ソプラノ・リサイタル」観賞

2011-09-15 08:48:53 | 日記

 

 

写真:「森麻季ソプラノ・リサイタル」のチラシ

 

「森麻季ソプラノ・リサイタル」を観賞

NHKドラマ「坂の上の雲」メインテーマ主題歌・「Stand Alone

透明感のある美声でした

 

9月14日夜、福岡市中央区天神のアクロス福岡・「シンフォニーホール」で開かれた森麻季の「ソプラノ・リサイタル」(主催・「福岡友の会」)を観賞、NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲(12月4日第3部「激闘完結編」スタート予定)の主題歌、久石譲作曲、小山薫堂作詞の『Stand alone』を歌い、話題になっている森さんの透明感のある美声に魅了されました。

 

 森さんは東京芸大大学院修了。「ブランド・ドミンゴ世界オペラコンテスト」ソプラノ部門最高位に輝き、一流オペラ歌手とも共演。スペイン生まれのテノール歌手で〝三大テノール〟として知られるドミンゴが、今、世界を魅了する「日本で最も美しい歌声」と絶賛、〝天使のソプラノ〟と言われる透明感のある美声で、華のある容姿も人気の歌手です。

 

 この日のリサイタルでは、山岸茂人(東京芸大大学院修了)のピアノ伴奏で、リストの「夢に来ませ」、山田耕作の「からたちの花」などを二部構成で独唱。そして小さな光が 歩んだ道を照らす 希望のつぼみが 遠くを見つめていた 迷い悩むほど 人は強さを掴むから 夢を見る 凛として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し〉と、『Stand alone』を歌い、心が洗われるような感動を覚えました。約千5百人で満席の入場客から大きな拍手が送られ、森さんもアンコールを4曲披露するほど嬉しそうでした。

 

ドラマ『坂の上の雲』で本木雅弘が演じる主人公の一人、旧日本海軍連合艦隊参謀・秋山真之(さねゆき)の書簡も展示されている福津市渡の「東郷神社」(祭神・東郷平八郎元帥=同連合艦隊司令長官)の〈宝物館〉(宝物殿)には、元帥を崇敬した秋山真之の手紙=写真②=や、旗艦・『三笠』の模型など多数が展示されています。

 

 

写真②:〈宝物館〉に展示されている秋山真之・旧日本海軍連合艦隊参謀が書いた手紙

    (吉村青春著『津屋崎学』から)

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2011年9月11日/〈日記〉434:「宮地嶽古墳と胸形君」

2011-09-11 19:43:05 | 日記

 

 

写真①:巨石で築かれた「宮地嶽古墳」の石室(吉村青春著『津屋崎学』から)

      =「不動神社」・初不動祭で、2007年1月28日撮影 

 

 福岡教育大学公開講座「講座むなかた! ムナカタ! 宗像!Ⅱ」の模様を9月10日の〈日記〉433で紹介しましたが、きょう11日は受講した「宮地嶽古墳と胸形君」の内容をリポートします。

 

講師は、宗像市福崎生まれの花田勝広氏(滋賀県野洲市教委文化財保護課)。「宮地嶽古墳と胸形君」の演題で講義されました。

 

花田講師は、福津市宮司元町の「宮地嶽神社」境内にあり、全国で2番目の巨大な横口式石室の築造で知られる「宮地嶽古墳」(国指定史跡)=写真①=について「直径35㍍前後の円墳で、全長23.5~24㍍の巨大な横口式石室を持つ。7世紀の石室全長では石舞台古墳(奈良県明日香村にある国指定特別史跡。大和朝廷で権威を振るった大豪族・蘇我馬子の墓とされる)に匹敵し、北部九州で最も注目される古墳」と話されました。

 

また、花田講師は「宮地嶽古墳」周囲の列石=写真②=については、昭和4年に積まれたとし、同古墳石室に祭られた「不動神社」=写真③=は昭和5年に「宮地嶽神社」に登記、合祀されたと説明。

 

 

写真②:「宮地嶽古墳」周囲に積まれた列石

=「宮地嶽神社」境内で、2011年9月11日撮影

 

 

写真③:石室に「不動神社」が祭られている「宮地嶽古墳」入り口

=「宮地嶽神社」境内で、2011年9月11日撮影

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