とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

「絶望の淵から輝く舞台へ」声楽家 村上彩子さん

2011-10-20 23:45:33 | 社会人大学
今年度、最後の社会人大学の講師は、声楽家の村上彩子さんだった。講演というよりは、コンサートといったほうがいいかもしれない。
もちろん、彼女が声楽家へとして成功するまでの長い道のりの話が非常に興味深いものだったが、
それ以上に、ソプラノ歌手という人は、これほどまでの声量と高い声が出るものだと、大きな驚きと感動をもらった。

まずは、村上彩子さんのプロフィールを紹介しておく。

広島県福山市神辺町出身
大阪音楽大学音楽学部声楽科卒業。会社員を経て
2007 東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。
在学中、リョービ(株)浦上奨学会より奨学金を受ける
大阪国際音楽コンクール奨励賞。
全日本ソリストコンクール優秀賞。文部科学大臣賞。

2006年、尾道市立美術館『戦没画学生慰霊美術館無言館展』の中で戦没学生慰霊演奏会を企画、奉唱。地元神辺町出身の童謡詩人、葛原しげる氏の次男、葛原守(東京藝大卒)氏の遺作を遺族より託され演奏する。岡山市デジタルミュージアム無言館特別展の中でも奉唱。中国、四国地方を中心に反響を得、演奏回数16回、来場数は3100名を超えた。新聞各社に掲載,NHKにたびたび特集となる。
円ブリオ(代表:遠藤周作夫人)福山、京都の活動にも毎年演奏で参加。2001、2004年フジテレビドキュメント番組「ザ・ノンフィクション」で藝大合格までが2回に渡り特集番組となる。諸外国にも放映となる。


講演では、子供時代から声楽家として大成するまでの話が、歌を交えて進んだ。
教育者の両親によって育てられた子供時代は、テレビを見たりお菓子を食べることも許されず
常に勉強させられ、テストでは90点以上取ることを要求される。
内申書の成績を上げる為に、学級委員や生徒会役員にも自ら立候補することを親に強制される。
だが、強制されることによってますます親への反発を強め、家を早く出て大学へ行くことだけを夢見ていた。

そして、念願叶い夢の大学生活を送る。親は、自分たちのような教師になることを期待していたようだが
親への反発から、営業関係の会社に就職し、7年ほど勤めたそうだ。
しかし、営業の仕事もそれほどうまくいかない。何を生きがいにして生きて行ったらいいのか、
判らなくなっているころ東京で地下鉄サリン事件に巻き込まれそうになる。
何時死ぬかわからない人生だったら、夢を追って生きたほうがいいと考えなおし会社を辞めて、
芸術家志望者が目指す最高峰の大学「東京藝術大学」を受験することにした。

だが、東京藝術大学に合格するのは簡単ではない。2度、3度ならず4度目でも不合格となり自殺も考えたという。
かなり、根性のある人でもこのくらいまで来るとあきらめるものである。
村上さんも、自分には才能がないとあきらめるしかないと思っていた。
しかし、その矢先に転機があったのだ。それは、長野県上田市の「無言館」を訪れたことだった。
若くして、特攻隊に志願して死んでいった若者たちの手紙や絵画等を見たことにより、4回の失敗であきらめる自分が恥ずかしいと思ったそうだ。
その後、自らの心を明るく前向きに変えていったことで、物事が好転していくようになる。
結局、7度目の試験で合格して、見事東京芸術大学の学生となる。
ここまでの話だけでも凄い話である。テレビでも、特集番組が組まれ放送されたという。

その後も、実家が全焼し祖母が亡くなるということもあり、声が出なくなったこともあったという。
大学には受かったものの、親からの援助はなく生活は厳しかった。
しかし、自分が明るく楽しくふるまうことで、物事は上手く進んできたという。
在学中に戦没学生慰霊演奏会を自ら企画し、何回もコンサートを行なったそうだ。
そんな実績を認められ、無償の奨学金を受けることにもなる。
いつの間にか、プロの声楽家としての道にたどり着いていたというわけである。
まさにタイトルどおりの「絶望の淵から輝く舞台へ」のお話であった。
夢をかなえるためには、あきらめずに努力を続けていくことが大事なんだと強く印象付けられた講演であった。

講演の間に歌われた曲は下記のとおりだ。
・アメイジング・グレイス
・日本の唱歌メドレー
  春の小川
  荒城の月
  茶摘
  夏は来ぬ
  紅葉
  七つの子
  冬景色
  雪
・私の愛するお父さん
・アヴェマリア(シューベルト)
・主よみもとに
・故郷
    休憩
・約束
・子供たちへのバラード
・アヴェマリア(カッチーニ)
・故郷   全員で合唱