『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

じかに見る

2019-10-24 07:58:00 | 勉強
今年、三十路になった
長男のフミに、
はじめて字を覚えた
保育園児の頃、
山頭火の晩秋の侘び句を
書かせたことがある。

外連味のない
幼児の字を書く喜びが溢れ、
いい書である。

土湯の湧き水を
水盥(すいう)に移し、
松煙墨を端渓硯で磨って、
中国製の象牙筆を用い、
古紙の画仙紙に書かせたので、
道具は一級の文房四宝である。

落款は彼用に
中国で一級篆刻師に
彫ってもらった「陰陽印」。

100均の色紙に
100均の筆ペンで書いたのとは
自ずと然るべく異なり、
道具が重厚長大感を創り、
平仮名と句の韻が
軽妙感を現している。

「写し書き」したときに、
「わたし」の「た」が抜けて、
後で、小さく加えたので、
「これが、ほんとのタヌキだぁ~」
と親子して笑った。




室礼には、
「真行草」の「真」になる真塗矢筈板に
「文(ふみ)」を掛けて漆蒔絵文箱と
路地の秋桜を信楽の花入に活けた。

「文」には多くの意味があるが、
「学問。芸術」を治め、
【文武両道】【文化人】であれ、
という願いも込められている。

落語では、
子ども自慢を
「親馬鹿チャンリン蕎麦屋の風鈴・・・」
と、揶揄するが・・・(笑)。

親馬鹿けっこう、毛だらけ、ネコ灰だらけ、
である(笑)。

田高時代には、
年間オール5(トーチャン奨励金1万円)と
ソフトテニスの福島県チャンピオン、
ランキング全国9位になったので、
文字通り【文武両道】であった。

小学生の頃は、
FTVジュニア・オーケストラに
トランペットで所属し、
ヨーロッパ公演にも参加し、
【文化人】としても活躍した。

まさに、
「名は体を現す」であり、
言霊(ことだま)と同じように
名霊があるのかもしれない。

図らずも、
「文」には
「美しさ/雅びさ」「筋道」
「規範」「礼儀」「仁徳」
などの意味もあるという。

それらも
体現してくれたら
親としても嬉しいのだが・・・。





「100分 de 名著」の
<西田幾多郎『善の研究』>
第三回目を視聴して
勉強した。

茶道家でもある
柳 宗悦の
「裸の目でみること」と
西田の
「知的直感」
というのが、
ほぼ同義語と解説された。

我々は対象を前にすると、
思想/嗜好/習慣、
思慮分別/判断…などが
「色メガネ」となり、
物の「実在」を見損なっているという。

柳 宗悦は、
名もなき人の作った茶碗に
美を見出す「民藝」という
美意識を提唱した。

茶も俗になると、
この茶碗は「誰作」やら、
箱書きは「誰宗匠」やら、
値段は「いくら」やら、
…と、茶碗の「実在」と
その真価とかけ離れてしまう。

それは、
市場経済原理と双頭の
骨董美術の価値観であり、
真の「茶の湯」ではない。




目の前の「茶碗」に対して、
これは信楽であるとか、
蹲(うずくま)る形(なり)だとか、
経験則によって、分類・ラベリングの
言葉化をした刹那に、
純粋経験はなくなり、
そのものの実在もまた損なわれる。

たしかに、
茶碗ひとつにしても、
それは宇宙の創世ともつながっており、
深い存在の何かと結びついているのである。

「宇宙が茶碗している」とも
「茶碗が宇宙している」とも
奇妙に表現できるが、
日本語としては、
なかなか理解し難いかもしれない。

私が存在している。
茶碗が存在している。

…これらを
ひっくり返すと…

存在が私している。
存在が茶碗している。

…となり、
私と茶碗は「存在」で
通低していることになるのだ。

仏教で言う【本来無一物】は、
事物(色/しき)はすべて
本来、空(くう)であるから、
執着すべきものは何一つない、
という意味だが、
すべてが空だからこそ、
「色即是空」
「空即是色」
なのである。

…なんだか、
何も説明になってないような
気がするなぁ…

(хдх;)  



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