今年、三十路になった
長男のフミに、
はじめて字を覚えた
保育園児の頃、
山頭火の晩秋の侘び句を
書かせたことがある。
外連味のない
幼児の字を書く喜びが溢れ、
いい書である。
土湯の湧き水を
水盥(すいう)に移し、
松煙墨を端渓硯で磨って、
中国製の象牙筆を用い、
古紙の画仙紙に書かせたので、
道具は一級の文房四宝である。
落款は彼用に
中国で一級篆刻師に
彫ってもらった「陰陽印」。
100均の色紙に
100均の筆ペンで書いたのとは
自ずと然るべく異なり、
道具が重厚長大感を創り、
平仮名と句の韻が
軽妙感を現している。
「写し書き」したときに、
「わたし」の「た」が抜けて、
後で、小さく加えたので、
「これが、ほんとのタヌキだぁ~」
と親子して笑った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/16/28974b9e4d91cd25ce42e0360de78614.jpg)
室礼には、
「真行草」の「真」になる真塗矢筈板に
「文(ふみ)」を掛けて漆蒔絵文箱と
路地の秋桜を信楽の花入に活けた。
「文」には多くの意味があるが、
「学問。芸術」を治め、
【文武両道】【文化人】であれ、
という願いも込められている。
落語では、
子ども自慢を
「親馬鹿チャンリン蕎麦屋の風鈴・・・」
と、揶揄するが・・・(笑)。
親馬鹿けっこう、毛だらけ、ネコ灰だらけ、
である(笑)。
田高時代には、
年間オール5(トーチャン奨励金1万円)と
ソフトテニスの福島県チャンピオン、
ランキング全国9位になったので、
文字通り【文武両道】であった。
小学生の頃は、
FTVジュニア・オーケストラに
トランペットで所属し、
ヨーロッパ公演にも参加し、
【文化人】としても活躍した。
まさに、
「名は体を現す」であり、
言霊(ことだま)と同じように
名霊があるのかもしれない。
図らずも、
「文」には
「美しさ/雅びさ」「筋道」
「規範」「礼儀」「仁徳」
などの意味もあるという。
それらも
体現してくれたら
親としても嬉しいのだが・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/21/35fbca5fb416cc2c86bbe014ba76a3be.jpg)
「100分 de 名著」の
<西田幾多郎『善の研究』>
第三回目を視聴して
勉強した。
茶道家でもある
柳 宗悦の
「裸の目でみること」と
西田の
「知的直感」
というのが、
ほぼ同義語と解説された。
我々は対象を前にすると、
思想/嗜好/習慣、
思慮分別/判断…などが
「色メガネ」となり、
物の「実在」を見損なっているという。
柳 宗悦は、
名もなき人の作った茶碗に
美を見出す「民藝」という
美意識を提唱した。
茶も俗になると、
この茶碗は「誰作」やら、
箱書きは「誰宗匠」やら、
値段は「いくら」やら、
…と、茶碗の「実在」と
その真価とかけ離れてしまう。
それは、
市場経済原理と双頭の
骨董美術の価値観であり、
真の「茶の湯」ではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/be/b8e829729e6f06613fe99e04ec9d1c0e.jpg)
目の前の「茶碗」に対して、
これは信楽であるとか、
蹲(うずくま)る形(なり)だとか、
経験則によって、分類・ラベリングの
言葉化をした刹那に、
純粋経験はなくなり、
そのものの実在もまた損なわれる。
たしかに、
茶碗ひとつにしても、
それは宇宙の創世ともつながっており、
深い存在の何かと結びついているのである。
「宇宙が茶碗している」とも
「茶碗が宇宙している」とも
奇妙に表現できるが、
日本語としては、
なかなか理解し難いかもしれない。
私が存在している。
茶碗が存在している。
…これらを
ひっくり返すと…
存在が私している。
存在が茶碗している。
…となり、
私と茶碗は「存在」で
通低していることになるのだ。
仏教で言う【本来無一物】は、
事物(色/しき)はすべて
本来、空(くう)であるから、
執着すべきものは何一つない、
という意味だが、
すべてが空だからこそ、
「色即是空」
「空即是色」
なのである。
…なんだか、
何も説明になってないような
気がするなぁ…
(хдх;)
長男のフミに、
はじめて字を覚えた
保育園児の頃、
山頭火の晩秋の侘び句を
書かせたことがある。
外連味のない
幼児の字を書く喜びが溢れ、
いい書である。
土湯の湧き水を
水盥(すいう)に移し、
松煙墨を端渓硯で磨って、
中国製の象牙筆を用い、
古紙の画仙紙に書かせたので、
道具は一級の文房四宝である。
落款は彼用に
中国で一級篆刻師に
彫ってもらった「陰陽印」。
100均の色紙に
100均の筆ペンで書いたのとは
自ずと然るべく異なり、
道具が重厚長大感を創り、
平仮名と句の韻が
軽妙感を現している。
「写し書き」したときに、
「わたし」の「た」が抜けて、
後で、小さく加えたので、
「これが、ほんとのタヌキだぁ~」
と親子して笑った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/16/28974b9e4d91cd25ce42e0360de78614.jpg)
室礼には、
「真行草」の「真」になる真塗矢筈板に
「文(ふみ)」を掛けて漆蒔絵文箱と
路地の秋桜を信楽の花入に活けた。
「文」には多くの意味があるが、
「学問。芸術」を治め、
【文武両道】【文化人】であれ、
という願いも込められている。
落語では、
子ども自慢を
「親馬鹿チャンリン蕎麦屋の風鈴・・・」
と、揶揄するが・・・(笑)。
親馬鹿けっこう、毛だらけ、ネコ灰だらけ、
である(笑)。
田高時代には、
年間オール5(トーチャン奨励金1万円)と
ソフトテニスの福島県チャンピオン、
ランキング全国9位になったので、
文字通り【文武両道】であった。
小学生の頃は、
FTVジュニア・オーケストラに
トランペットで所属し、
ヨーロッパ公演にも参加し、
【文化人】としても活躍した。
まさに、
「名は体を現す」であり、
言霊(ことだま)と同じように
名霊があるのかもしれない。
図らずも、
「文」には
「美しさ/雅びさ」「筋道」
「規範」「礼儀」「仁徳」
などの意味もあるという。
それらも
体現してくれたら
親としても嬉しいのだが・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/21/35fbca5fb416cc2c86bbe014ba76a3be.jpg)
「100分 de 名著」の
<西田幾多郎『善の研究』>
第三回目を視聴して
勉強した。
茶道家でもある
柳 宗悦の
「裸の目でみること」と
西田の
「知的直感」
というのが、
ほぼ同義語と解説された。
我々は対象を前にすると、
思想/嗜好/習慣、
思慮分別/判断…などが
「色メガネ」となり、
物の「実在」を見損なっているという。
柳 宗悦は、
名もなき人の作った茶碗に
美を見出す「民藝」という
美意識を提唱した。
茶も俗になると、
この茶碗は「誰作」やら、
箱書きは「誰宗匠」やら、
値段は「いくら」やら、
…と、茶碗の「実在」と
その真価とかけ離れてしまう。
それは、
市場経済原理と双頭の
骨董美術の価値観であり、
真の「茶の湯」ではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/be/b8e829729e6f06613fe99e04ec9d1c0e.jpg)
目の前の「茶碗」に対して、
これは信楽であるとか、
蹲(うずくま)る形(なり)だとか、
経験則によって、分類・ラベリングの
言葉化をした刹那に、
純粋経験はなくなり、
そのものの実在もまた損なわれる。
たしかに、
茶碗ひとつにしても、
それは宇宙の創世ともつながっており、
深い存在の何かと結びついているのである。
「宇宙が茶碗している」とも
「茶碗が宇宙している」とも
奇妙に表現できるが、
日本語としては、
なかなか理解し難いかもしれない。
私が存在している。
茶碗が存在している。
…これらを
ひっくり返すと…
存在が私している。
存在が茶碗している。
…となり、
私と茶碗は「存在」で
通低していることになるのだ。
仏教で言う【本来無一物】は、
事物(色/しき)はすべて
本来、空(くう)であるから、
執着すべきものは何一つない、
という意味だが、
すべてが空だからこそ、
「色即是空」
「空即是色」
なのである。
…なんだか、
何も説明になってないような
気がするなぁ…
(хдх;)
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