goo blog サービス終了のお知らせ 

『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

震災短編『太平洋ひとり』9

2022-11-02 08:13:27 | 創作

【低体温症(Hypothermia/ ハイポサーミア)】

 恒温動物の深部体温が、正常な生体活動の維持に必要な水準を下回ったときに生じる様々な症状の総称。ヒトでは、直腸温が35℃以下に低下した場合に【低体温症】と診断される。低体温症による死を【凍死】と呼ぶ。
(ウィキペディア)

 一度、極寒の海中に没した里奈は、今まさに、その〝ハイポサーミア〟という恒温動物にとっては致命的とも言える物理的寒冷刺激にしてやられていた。
 まさか、冬山ならいざ知らず…、もうすぐ春になろうかという海の上で凍死するようなハメになるとは…。 

 里奈は、自律神経のホメオスタシス(恒常性維持)機能がどこまで体温を維持できるか…。やはり時間の問題だろう…と、ぼんやりした意識で感じていた。

 寒風に晒される中、濡れた服を着たままでは、気化熱により体温低下が進行することは自明の理であった。
 カチカチと歯の根が音を立て始めた。

(寒い。寒いよぅ…)
 こころの内に棲む3才くらいのインナーチャイルドが、凍え始めた。
 一方で、実年齢の理系頭は、そのうち、体内の生化学反応が、マルファンクション(機能不全)に陥るんだろうなぁ…と、覚悟した。 

 ヒトは、腹を冷やすと下痢になる。それは、消化管の温度低下によって消化酵素の活性化が鈍り、消化作用が阻害されるからである。 
 生命活動の担い手でもある体内酵素は、37℃前後が最適活性温度であることは、高校生なら誰でも『生物』の時間に習う。
 直腸内で検温できる深部体温が35℃を切ると、ヒトはもはや「人事不省」状態に陥ってしまう。

 洋上には、乾いたタオルも衣服も、暖をとる何の熱源もなかった。
 まさに、絶体絶命である。

(ダメだ。こりゃ…)
 それは、里奈の好きだったドリフの長さんの決めセリフだった。
 彼女の深層に潜むトリックスターが、この悲惨極まる状況下をセルフモニタリングして、道化てみせた。
 それは、まだ、意識が混濁してはいない証しでもあった。

「寒さ」を感じているうちは、まだ、感覚センサーも正常に機能している。
 しかし、瀕死の状態には違いなかった。
(キュウ…ジョ…?…) 
 この期に及んで、それは、宝籤でミリオネアになるのと同率のことだった。

 

(お母さん…

 お父さん…

 颯太ぁ…

 みんな、ありがとう…

 いろいろ、ありがとう…

 けっこう、たのしかったよ…)

 頬にまた熱い涙が走った。
 その流れる筋に沿って自分の体温を感じる事ができた。

 

(裕くん… 

 好きよ…

 大好きよ…

 ごめんね…

 ……

 ほんと… ごめん…

 泣かないで… ね…

 怒らないで…

 ごめんなさい……   )

 すべて、言葉には、ならなかった。
 脳内の、こころの内の、囁きであった。

 大きなうねりの波頭が、砕け、里奈の全身をダパン…と、洗った。
 いくらか塩水を飲んだが、やはり、冷たさが先に感じられた。

 まだ、生きている…と、里奈は、ずぶ濡れで仰向けになったまま、ほんの少し口角を緩め、苦笑した。

 

 

 


震災短編『太平洋ひとり』8

2022-11-01 07:58:46 | 創作

 

 全身が海水に浸った里奈は、屋根の突端に身を寄せたはよかったが、そのあまりの寒さに歯の根が合わないほど震え上がった。 

 3月初旬の海水温は、10℃にも満たなかった。
 まして、時折、チラチラと雪が舞い落ちてくる天候である。

 ポリ袋やプラスチック・ゴミ箱でこしらえたあげた手製救命具によって、氷山の一角のような屋根の突端が水没しても、しばらくは浮いていられよう。
 だが、この水温と寒風では、低体温症によって、そう長くはもつまい…。

(もう、ダメか…)
 さすがに里奈も、360度見渡す限り水平線の中に、ひとり放り出されては、観念するよりなかった。 
 

 早春の濃い青緑の海にオレンジ色の屋根は、偶然にも補色関係にあり、それは哀しいほど鮮やかであった。
 寒色の海に浮かぶ唯一暖色の屋根の上に、里奈は惚けたように、じっと仰向けに寝そべっていた。

 パニクるでもなく、泣くでもなく、恐れるでもなく…
 ただただ、疲れ果てて、諦めと空しさ、虚ろな思い…
 そして、五感から感覚される、眩い光、波の音、潮の香り、体の冷たさ、口の中の塩辛さ…

 まだ、死んではいなかった。

(東京、行きたかったなぁ…) 

 もう、言葉は出なかった。

 それでも、熱い涙は、まだこぼれた。

 極寒のなかで、それはほんとうに熱い涙だった。

(裕くん。ごめん。
 わたし、東京行けないわ…) 

 里奈は、こころの中でそう詫びると、しずかに目を閉じて嗚咽した。  

 遠くに海鳥が数羽、コーコーと鳴きながら、気流に乗ってフワフワと飛び交っていた。

 高台の母親は、気も狂わんばかりの思いで、彼方沖合を凝視し続けていた。
 愛娘が今、広い洋上で、寒さに打ち震えていることも、行くことが叶わなかった都会へ思いを馳せていることも、人生の終幕をたったひとりで迎えようとしていることも、知る由もなかった。

 

           

 


震災短編『太平洋ひとり』7

2022-10-31 08:30:07 | 創作

 一時間が過ぎた。

 里奈を乗せた家舟は、辛うじて浮力を失うことなく航行していた。
 だが、船室と化した寝室は、足元に小波が立つほどだった。

 家舟は周期的にゆったりと回転を続けていたが、もはや、どの方角にも陸地を見出す事は出来なかった。
 360度、見渡す限りの水平線。
 コンパスを持たぬ船長(ふなおさ)は、方向喪失感に呆然となった。

 水。水。水。
 海。海。海。

(ここは何処?…)
 
 太平洋をたった一人で漂流していた。
 食料も飲み水もない。
 トイレも使えず、乾いたタオルもない。
 もうすぐ、ベッドも水に沈むだろう。
 この『少女漂流記』の結末は、まだ誰にもわからない。
 
 里奈は沈没船のクルーとして、脱出時の救命具の準備に取りかかっていた。
 まず、ゴミ箱のポリ袋を取り出して、風船のように息を吹き込んで堅く結わえた。そして、すかさずセーターの下に入れて、腹抱きにした。
 ついでにプラ製のゴミ箱を逆さまにして、開口部をガムテープで幾重にも塞いだ。これは、わき腹のあたりにセーターの上からガムテープでグルグル巻きにして接着させた。
 他にも空気を溜めれそうな耐水性のものを選っては、小物箱だろうが、ビニルバッグだろうが、きっちりと密閉しては体にくくりつけた。
 些細なものでも掻き集めれば、人ひとりを浮かすだけの浮力を得られるはずである。
 
 地震で散乱した書棚の参考書や問題集などが、自室のプールで浮いたり沈んだりしていた。
 それは不思議な光景としか言いようがなかった。
 床上浸水はすでにニーハイ・レベルである。

 家の沈降速度は時間に比例するものとばかり里奈は考えていたが、臨界値を超えたら加速度的にドボン…と、いくことだって有り得た。
 時折、海水が窓ガラスにかかるようになった。
 それが、海面と同じ高さになったら、やがて水圧で圧壊するだろう。
 その時が、この家舟の終焉の時である。
 脱出のタイミングは、リハーサルなしの一発勝負だ。 

 命の瀬戸際。
 身一つでの漂流。
 鮫の餌食?…

 里奈のシミュレーションは、安易な楽観には傾き難かった。
 でもやるよりない。
 命を一分一秒でも永らえるために。

 その緊張感は、幼い日、初めての運動会で、徒競走の直前に感じたあの高揚感に近かった。
 交感神経の興奮が極みに達し、瞳孔が拡散し、拍動が高まり、血管は収縮する。
 これ以上の「命懸け」の時はなかろう。

 突然、大きなうねりが、家を10mほどグワン…と持ち上げた。
 それは津波の第二波だった。
 波の頂上から谷に落ちる時、里奈は飛行機の急降下時に感じる、あのマイナスのGを体感した。
 その時、家舟も船体にマックスの負荷を受けて、扉は海水圧で吹き飛ばされ、里奈は全身濡れ鼠になった。 

 押し寄せた海水は、一挙に寝室の窓の位置まで達した。
 今しかなかった。
 水圧で窓が開かなくなる。
 里奈はこの機を逃さずに、窓を全開にし、大洋に身を投じた。

 今開けたばかりの窓から大量の海水が一気になだれ込んだ。
 瞬時にして家は沈降し、二階のオレンジ色の屋根のみが海面にわずかに浮かんでいた。
 そこにも空気溜まりがあったのだろう。

 里奈は、その鮮やかな色合いの屋根までバタ足で近づいて、突端に手を伸ばした。
 そして、スヌーピーのように、その屋根の上に仰向けになった。
 もはや、それは舟でもなんでもなかった。そのほとんどを海面下に没した漂流物の一部でしかなかった。

 

      


震災短編『太平洋ひとり』6

2022-10-30 11:15:02 | 創作


 窓辺から遠く陸地に目をやると、故郷はしだいに霞みはじめていた。
 それでも、水平線とは明らかに違い、山々の凹凸が地面の在ることをあからさまに見せていた。
 それは西の方角に当たり、その反対側が、陽の出ずる沖合である。 

 家舟は一路その方角に舳先を向けていた。
 沖合に出るにつれ、周囲に散乱していた浮遊物も疎らになり、流された家々は、まるで宇宙の膨張によって銀河どうしが互いに遠ざかるように散開しはじめていった。

 家舟はゆったりとした周期で時計回りの方向に回転していた。
 それによって、寝室の窓は陸地に向いたり、沖合に向いたりした。
 何分かの周期で一回転して、さながら螺旋階段のように、同じ方角にくるたびに陸地は西の水平線にちょっとずつ沈んでいった。
 理系の人間には馬鹿らしいことだったが、地球が丸いことが呪わしかった。 

 その間にも、床上浸水は確実にその嵩を増し、フローリング全体がユラユラと蠢く巨大アメーバに占拠されたかのようであった。
(建材が水を吸ってるんだ…)
 湿潤率と沈降率は時間経過に正比例していることは、理系の学生でなくとも自明だった。
一定の傾きで右肩上がりにモニター上を上昇する直線の先には、デッドライン、即ち、虎口がポッカリ開いていた。

 ドラマのように、放送時間ギリギリでの奇跡的な救助がなくば、自分の余命は、落下する砂時計の砂の残量であることを、里奈は痛いほどイメージできた。
(やばい。やばい…。
 もうダメだ…)
 またもや、ペシミスティックな想念と諦念感が、さっきまで『巨人の星』を歌っていた勇猛な少女の心を侵食しようとしていた。
 家舟とデュエットでシンクロするかのように、里奈の心も揺れに揺れた。
 十八年の人生のなかで、最も濃密な時間を今、ここで、生きていることに彼女は気付く余裕なぞなかった。

 枕の下から半分顔をのぞかせていた目覚まし時計が、3時半過ぎを指していた。
 あれから、まだ一時間も経っていなかった。だが、この時間の長さはどうだろう。
 今朝、体調しだいでは、卒業式に出られるかも…と、念のためにセットし、そのアラーム音をとめて起きた。
 風邪さえ癒えていれば、卒業式に出ていて、地震とともに仲間たちと避難したか、あるいは、津波を見て校舎の屋上へと退避したかもしれない…。
 受験を終えて、しかも合格して、緊張の糸が緩んで、油断して、風邪を招いたのかもしれない。
 今さら、ああしていたら…、こうしていれば…と、「タラレバ」論に帰結しても詮ない事だった。

【時間の矢は元に戻らない】
 熱力学第二法則は、宇宙の基本原理である。
 里奈は〝理系頭〟の自分が恨めしかった。
 科学は人の役に立つものだが、人は科学のために生きているのではない。
 そんな哲学的なことを、このカタストロフィックなクライシス状況で、里奈は学習した。

    

   


震災短編『太平洋ひとり』5

2022-10-29 07:17:17 | 創作

 里奈は、どう死のうかと思案した。

 JK(女子高生)お得意のWC(リストカット)をするか、いっそNC(ネックカット)をするか…。
 カッターなら自室の勉強机の引き出しにある。
 里奈は揺らぐ甲板のようなフローリングを歩み、それを取り出した。
 ベッドに戻ると、窓に背を向けてチキチキと、ブレードを伸ばし、腕をまくりあげてみた。
 うっすらと青みがかった静脈が見えた。
 冷たい刃先を手首に当ててみた。

 
 ダッパーン…と、うねりが外壁に打ち付けた。
 ジュクジュクと泡を立てて、濁流がドアの下の隙間からさらに流れ込んできた。
(グズグズしていられない…) 
 と、頭では思うのだが、つい今朝方まで、都会での〈花の女子大生〉生活を夢見心地で待ち暮らしていたのである。
それが、その日の午後に、手首を切って自殺しよう、という百八十度「暗転」の人生を実現する勇気がどうして湧いてくるだろうか。 

 手首に銀色の刃先を当てたまま、後から後から涙がこぼれた。
 悲しかった。悔しかった。怖かった。
(なんで、私が…
 今、死ななきゃならないの…。
 いったい、どんな悪い事をした、っていうの…)
 それは、巨大地震と巨大津波を起こした自然か神に向かっての恨み言、泣き言であった。

(なんで…)
 と再び疑問が繰り返した刹那、里奈はカッターをケータイ同様に部屋の隅に叩き付けた。
 死ねなかった。
 そう易々とは命を絶つことができなかった。

「だいじょーぶッ!
 だいじょーぶだからッ!
 ぜったい助かるから…
 自衛隊…」
 という母親の叫び声がこの期に及んで脳裏に浮かんだ。
 それは不安と恐怖で、悲観の極みに陥り、束の間、死神にとり憑かれた彼女を救う慈母の言霊でもあった。 

 そうだ。たとえ万に一つの可能性だとしても、生きてさえいれば、生存確率は0%ではないはずだ。
 自衛隊…
 海上保安庁…
 漁船…
 報道関係ヘリ…
 アメリカ軍…
 理系大学に合格した里奈は、咄嗟に、感情から理性モードへとスイッチを切り替えた。
 それは瞬時のことであった。 

 捨て鉢になって、泣き言と恨み言を言って自殺しようなんて…。
 里奈は、自室に迫り来る海水と溺死の恐怖と闘っていた。
「頑張って、里奈ぁーッ」
 と、檄をとばす母の声を耳に聞いた。
「だいじょーぶッ!
 だいじょーぶだからッ!
 ぜったい助かるから…
 自衛隊…」
 と、里奈は、母親の必死の叫びを復唱していた。 

 心が折れたらゲームセットになる。
 テニス選手だった里奈は、経験でそのことをよく熟知していた。
(敵に怖れてはダメ。
 相手をよく見極めなきゃ…)
 死の虎口を撃破するのには、自らを鼓舞せねばならなかった。

(死んでたまるかッ)
 里奈は、〈勇猛な自分〉が心の奥底から湧いて出てくるのを頼もしく感じた。

「♪オッモッい~ぃ、こぉーんだぁらー、試練ッ、の道ぃを~ッ♪」
 なぜだか、ふいに、遠く昔、父の膝の上で見た古い野球アニメの主題歌が口をついて出てきた。
 それは、自分へのエールだった。
 同時に、父の膝の温もりと、いくらかヤニ臭い口元まで、記憶の底から甦ってきた。
 なつかしい気持ちに浸りながら、里奈は父と一緒に唱和した日々に想いを馳せた。