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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

震災短編『太平洋ひとり』4

2022-10-28 08:38:15 | 創作

「里…だいじょ…」
 ケータイの音声が突然、途絶えた。 

 そうだ。陸から数キロも離れた洋上では圏外になってしまうのだった。
 母との〝つながり〟はそこで途絶した。
 バッテリーはまだ十分にあった。
 陸地と洋上で、母娘共にそのことに気付いたときは、暗澹となり、母親は膝折れ、地面に突っ伏して泣いた。

 娘は憎しみをこめてケータイを部屋の隅に叩きつけた。
 孤立無援となった。

 まだ陸地が見えるものの、家舟は無常にも、沖へ沖へと流されていく。
 やがて津波の引き波から潮の流れに乗ったら、太平洋を横断しかねない。それまでこの華奢な、にわかづくりの新造船が持つはずもなかった。

 海上は少しばかりうねっていた。
 ザザーン…っという、大波が壁面にぶつかった拍子に、ドアの下からササーッと海水が浸入してきた。
「いや~ッ!」
 里奈は嘆きの悲鳴をあげた。
「死」が虎口を開けて一歩一歩彼女に近づいてきた。

「お母さぁ~ん…。
 たすけてぇ~…」
 この春、晴れて大学生になるはずだった娘は、少女のようになって目蓋の母にすがった。
「死にたくないよぅ・・・…」

 その時、また濁った水がズルリと床の上を滑るように入ってきた。その焦げ茶色の魔手は、しだいに里奈の座すベッドに手を掛けようとしていた。
「お父さぁ~ん…。
たすけてぇ~…」
 安否も分らぬ父に、幼い日、その膝の上でうたた寝をした父に、里奈はすがった。
 母親の声に励まされ、つい先刻まで気丈さを保っていた娘は、通信途絶を境に、気弱な船長(ふなおさ)に堕してしまった。
 
 絶望・・・。
【望みがないこと】
 ついこないだまで受験生だった里奈の脳裏に、そんな辞書的な単語が浮かび上がった。 

 真新しいフローリングを汚しながらジワッジワッと侵襲してくる海水。潮臭い室内。窓の外には、鉛色の天空から舞い降り飛び交う小雪の風花(かざばな)。
 里奈の頭からは、母親の言った「自衛隊」も「海上保安庁」も「漁師」も消えていた。

(死ぬんだ。わたし…)
 悲観の極みの中で、里奈は諦念も覚悟も持てぬまま、この覚めない夢のような現実のいきつく果てに待っているのが、方程式の唯一の解であることだけは識っていた。

 里奈はフローリングの汚点を凝視しながら、しばし虚脱状態に陥った。
 頬に幾筋もの涙が走った。
 石膏像のように固まって思考は停止した。
 まさに虚脱…。
 いっそのこと、魂だけがこの肉体を幽離して高台の母のもとへ翔んでいけたら…。

(そうだ。死のうッ!)
 非常時に、健全な娘に閃いたのは、平時ならば、全くもって不健全な閃きであった。
(このまま、ジワジワと恐怖に苛まれて狂い死にするより、潔く、自ら命を絶った方がいいに決まってる…)
 それは、法律で婚姻可能な十八歳の青年成人が下した決断だった。 

 

     

 

 


震災短編『太平洋ひとり』3

2022-10-27 10:20:16 | 創作

 母親の祈りは、思いがけぬ形で天に届いた。
 なんと里奈の乗った家舟は、ビリヤードの玉のように、無数の漂流物に押し合いへし合いされたのと、津波の巨大な渦によって方向を変えられ、母親のいる高台近辺へとその舳先を向けていたのだ。
 布団から這い出し、窓辺にかじりついて外の情景に目が釘付けになっていた里奈は、そのことに気付いた。

「お母さん。そっちへ行くよーッ!」
 という予想だにしなかった娘の言葉に、母親は瞬時にはその状況が呑み込めずにいた。
 そして、まるで、娘が学校から帰宅でもするような姿が脳裏に浮かんで、ほんの一瞬だけ胸の内に明かりが灯ったような気がした。
 しかし、それは妄想にしか過ぎなかった。
 母親も、今この状況で、娘が言ったことの意味がようやく了解できた。
 そして、逆巻く濁流の彼方へと目を凝らした。
 すると、どうだろう。
 我が家のと思しきあのオレンジ色の屋根がこちらへ向かって流れてくるではないか。
 今しばらくしたら、高台から数十メートル辺りまでやってきそうな…と、思っているうちにも、どんどんと接近してくるのであった。

「里奈ぁーッ!」
 思わず母親はその方角に向かってありったけの力を振り絞って雄叫びをあげた。
 その時だった。
 堅く閉ざされていたサッシの窓がガラリと開き、里奈が半身を乗り出してこちらに向かって叫んだ。
「お母さぁーんッ!」
 母親の目に、はっきりとその姿が映った。娘である。ケータイの向こうの生身の里奈がそこにいた。

「お母さぁーんッ!」
 と二度目に叫んだ声は、よりハッキリと母親の耳に届いた。
「里奈ぁーッ!」
 母親も無我夢中で叫んだ。
 親子共々、諸手を広げて互いを抱擁せんとばかり、互いを呼び合った。
 その場面を、高台の大勢の避難者たちが目撃していた。
 なんという母娘の邂逅であり、そして告別であろう。

「お母さぁーんッ!」
「里奈ぁーッ!」
 二人の距離が最短に縮まったとき、母娘の目と目がしっかりと合った。
「里奈ぁーッ!」
「お母さぁーんッ!」
 二人は泣きながら互いを呼び合ったが、次の瞬間には、家舟は無常にも海岸線に向かって特急列車のように高台前をすり抜けていった。

「里奈ぁーッ!」
「お母さぁーんッ!」
 わずかの間にも、娘の叫び声は母の耳からどんどんと遠ざかっていった。
 その先には、まるで娘のことを家ごとひと呑みにしようと魔人が大口を開いて待ち伏せしているかのように母親には思えた。
 
 さすがに、娘も母親も、この逆巻く怒涛の中に身を投じようとは思いもしなかった。
 それは間違いなく確実な自殺行為であり、漂流にまかせて救助される確率の方がまだ高いはずだった。
 母親はまたケータイに向かって娘に呼びかけた。
「だいじょーぶ。
 だいじょーぶだから。
 がんばるのよッ! 
 きっと自衛隊が助けてくれるからッ!」
 と、はじめて母親の口から具体的な救助の希望を娘に告げた。
「わかった。
 がんばるッ!」
 里奈は、母親の励ましが功を奏したのか、いくらか気丈さを取り戻していた。
 母親も娘も祈る思いだった。
(自衛隊でも、海上保安庁でも、漁船でも、なんでもいいから助けて…。神様ぁ…)
 
 里奈を乗せた家舟は、海岸線を超え沖へと向いだした。
 わずか数分で、母のいる高台は遠方に遠のいた。
 恐るべき引き波の速さである。
 それでも今のところ、バッテリーが続く限り、母娘の応答を阻むものがなかった。

「里奈ッ。窓を閉めなさいッ!」
 母は強い口調で娘にそう指示をし、娘はそれに従った。
 部屋中は完全に潮の匂いに満たされていた。
 

 もう、洋上に出ており、我が町は、遥か彼方へと後退していた。

 


震災短編『太平洋ひとり』2

2022-10-26 08:13:22 | 創作

 家舟の流される速度は、ちょうど全速力で漕いだ自転車ぐらいの速さだろうか。
 家全体がひとつの箱舟のように、ゆらゆらと揺れながら濁流の海水に乗ってどんどんと上流へと流されていった。
  

 里奈の部屋は、さながら嵐の海を渡る船室のように大きく前後左右に揺らめいていたが、震度6強が三分も続いたファースト・インパクトで、もはや何ひとつ落ちる物はなかった。
 一階の天井に空気溜まりがあるのか、家はけっこう安定感を保ちながら箱舟の用を為していた。

「里奈、だいじょうぶかいッ?」
 母親は途切れることなくずっと娘の安否を問いつづけた。
「うん…。まだ、部屋まで水入ってこないよぉ…。
 あぁッ…」
「どうしたのッ?」
 動悸が高鳴り続けていた母親だったが、さらに一瞬ドキリとした。
「学校が見えた…」
 それは里奈の卒業した小学校の体育館の屋根であった。
(そんな所まで、もう…)
 母親は、娘が制御不能の箱舟によって何処まで運ばれるのか、今にも狂いそうになる思いで胸が塞がった。
 

 高台から見下ろす土色に濁った海流の勢いは、まったくもって治まらなかった。
 もはや押し流されるべく沿岸の構造物は尽きたとみえ、広大な海そのものが押し寄せてきて、凄まじい勢いで街々を呑み込んでいった。
 娘の姿は見えずとも、その息遣いと哀れな声は、耳もとのケータイから轟音に紛れてまだ母親に届いていた。
(里奈ぁ…。
どうぞお助けください)
 と、母親はふだん祈った事のない神仏にすがった。
(お父さん。助けて…)
 と、去年亡くなった里奈の祖父にも祈った。
 
 家舟は数キロも上流に流された。
 そして、行き着くところまで行くと、次第に流れは淀み、半径数十メートルの巨大な渦をあちこちに生じさせ、ゆったりと流れを逆転させた。
 いよいよ川下りのように、下流に向かって家舟は進路を反転した。
 流された多くの家々と共に…。

「お母さん。今度はまたそっちに流れ出したよう…」
(どうなっちゃうの、これから…)
 とまでは言葉にならなかった。
 家舟の梁がギシギシと大きな呻き声をあげた。
 津波の渦によって捻られ、構造にストレスがかかったのだろう。
 それはまるで、家自体も
(もうだめ…)
 と悲鳴を上げているかのようであった。

 初めはゆったりした反転速度だったが、それは徐々に速度を上げ、次第に加速度がついて、押し流された速さを上回るほどの激流に化しつつあった。
 

 里奈は、海岸の砂浜で、足元を返す波に足を取られて倒れた幼い日のことを想い出した。
 浜辺のたった数十センチの波でも、幼い子ぐらいは転倒させる運動量があることを経験者なら誰でも知っているだろう。
 この津波の高さはどうだろう。
 小学校の体育館が水没しかかっている。裕に15mはあるのだろう。
 コンクリートの防潮堤が紙細工のごとく押し流されたのだから、その破壊力の凄まじさは計算も及ばない。
 それにもまして浮力の凄さである。家一軒を基礎から浮かせてしまうのだから…。
 それでも、まだ、バラバラに解体し散乱してしまった家はこの時間帯にはなかった。
 しかし、どの家々もそうとうなストレスで疲弊していた。
 何より海水に浸った建材は、刻一刻とその強度を脆弱化させているはずであった。
 それでも、里奈の家舟は新築だったこともあり、まだ十分に舟としての機能を果たしていた。

「お母さん。こわいよぉーッ… これから、どこに行くの、これ…」
 その問いにだけは、母親もさすがに応えかねて…
「だいじょーぶ。
 ぜったい、助けが来るから…」
 と勇気づけるよりなかった。
 

 津波の返りは、さらに加速し、やがて渓谷の激流なみのトップスピードになって飛沫(しぶき)さえ立てはじめた。

(こわいッ…) 

 里奈は、そのスピード感と、家舟全体の揺れ、そして、辺りに響き渡る轟音とに圧倒されて、胸内苦悶と過呼吸の症状に陥った。
「苦しい…。お母さん。苦しいよぉ…」
 娘は泣いた。怖がっており、苦しがっている。
 手が届くものなら、この腕に抱きしめてやりたかった。
 母親も涙した。

「里奈ぁ。がんばるのよーッ!
 もうすぐ助けが行くからねッ!」
 それは母親の願いではあったが、それを保障するものは、今、何ひとつなかった。
 今この荒れ狂う自然の猛威のなかで、誰がどう救助できるというのだろう。           
 現実には、母親の願いは祈りに過ぎなかった。それでも、母親は信じた。我が子が奇跡的に生還するであろうことを…。

 高台では、見知らぬ人どうしがひと処に寄り合って、眼下の大惨事に、悲鳴とも絶叫ともつかない嘆きの声を誰もが上げていた。
「何なんだこれ…」を繰り返してばかりいる青年。
「何が防潮堤だぁーッ!」とやり場のない怒りを吐いている初老の男。
「カナエーッ! かなえーっ!」
 と濁流に向かって叫び続ける父親。
「なんまいだぶ、なんまいだぶつ…」とお経を唱える老婆。
「里奈ぁーッ!」とケータイに向かって呼びかけ続ける母親。
 それはまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図のようであった。  

 

        

 


震災短編『太平洋ひとり』1

2022-10-25 08:52:58 | 創作

 3・11の時に、実際に聞いた悲劇が、どうにも胸に治まらなくて、そのイメージを夢にまで見るほどトラウマになったので、思い切って、フィクションを創作して吐き出すことにした。
 被災された個人名は存じ上げないが、ご本人のご冥福と、ご親族の「たましい」の助かりを、心から祈念するものである。

 

        
 
***
 

 

 3月11日。

 あの日、里奈は卒業式であったが、あいにくと風邪をこじらせて二階の自室の床に伏していた。
 そして、午後二時四十六分。
 

 恐ろしいばかりの地鳴りと共に家が大きく揺れ、本棚からありとあらゆるものが飛び出して、しまいには本棚そのものが凄まじい音を立てて倒れ伏した。
 両親は仕事に出掛けており、弟も学校であった。
 家にひとり伏せっていた里奈は、ベッドで布団をかぶって悲鳴を上げるよりなかった。
 

 恐ろしい揺れは、間隔をおいて、三度襲ってきた。
 バキバキッという何かが折れる音が窓の外から聞こえてきて、里奈の恐怖心をさらに煽った。
「お母さ~ん。助けてぇ~ッ」
 と、里奈は布団をかぶりながら泣き叫んだ。

 激しい揺れが治まっても、しばしの間、布団から顔が出せないほど彼女はパニックに陥っていた。

 風邪で体がだるくて思うように動かない、ということもあった。
 里奈は、恐怖心に体を強張らせながら、布団に包まっているより為すすべがなかった。
 その間にも、動悸が高鳴るような余震が何回も部屋全体をゆらして、そのたびごとに
「いや~! 助けてぇ~ッ」
 と泣き叫び続けた。
 

 もう室内は、足の踏み場もないほどに、あらゆるものが散乱している。
 枕元のケータイは三分おきほどに「地震警戒チャイム」がなった。
 里奈の十八年の人生で一度も経験したことのない、あきらかに異常な事態が発生していた。
 ケータイのチャイムがなるたびに部屋は音を立てて揺れた。
 

 窓の外には、ちらちらと雪が舞っている。まだ、冬の終わりといってもよかった。
 何回目かのチャイムが鳴り響いた頃、里奈は揺れやまないベッドの布団の中で、聞きなれない、低いホワイト・ノイズを耳にした。
 聞き覚えのないそれは、次第にヴォリュームを増し、ゴーッという唸りのなかに、メキメキ、バキバキという音を含んでいた。
 里奈は本能的に破壊的な何かがこちらに迫ってくるのに恐怖した。
 それは、やがて轟音になり、濁流のような水音と感じた瞬間、ダダーンッと、家の壁に激突した衝撃を感じた。

(なにッ?)
 里奈は布団の中で頭が真っ白になった。
(今度はなんなのッ?)
 里奈はその不明の爆音の正体に布団から顔を出して確かめる勇気が起きなかった。
 それは、水がゴンゴンと流れる凄まじい音だった。
(エッ? 何なの~…)
 ドッカン、ドッカンと、次々に家の壁に何か巨大なものがぶち当たった。
 それは、布団の中の里奈には、巨大なモンスターが街を踏み潰しているかのような衝撃であった。
 勇気を振り絞って、布団の隙間から、ちらりと窓の外を見て、里奈は肝をつぶした。
 なんと、どこかの家が何軒も目の前を流れてゆくのである。
(津波…?)
 ここにおいて、里奈は初めてモンスターの正体を知った。
 大津波だった。巨大津波だった。
 自分のいる家もすでに一階部分は水没していた。
(何なのこれ…?)
 恐怖のなかにも、唖然とした気分が湧きあがった。

 幸いにも、津波は二階の窓ギリギリのところまでの水位である。
 しかし、窓の外は、見渡す先まで海の中にいるような光景が広がっていた。

 磯臭い、潮の香りが部屋の扉からなだれ込んできた。
 階段が海水に浸ったのだろう。
 

 里奈は蒼ざめた表情で、窓の外を流れる何軒もの家々を見送っていたが、この先起こるであろう、我が家と我が身の運命なぞ、つゆも想像できなかった。
 十八年の生涯で、聴いた事もないような自然が発する大音声に、うら若い女の子は震えるよりすべがなかった。
 その時だった。地震とは明らかに違う揺れが里奈を襲った。
 それはガコンッという衝撃に続いて家が何かから外れて浮き上がったような感覚であった。
 我が家が浮かぶ舟になった瞬間である。

(うそ~ッ…)
 里奈は、新たに半泣きになって、浮遊して流れ始める舟のような感覚に、血が引くような寒気を感じた。
 遠くに見える高台が、まるで不動の北極星のようにそこに留まってあり、自分を乗せた家の船は流れに乗ってどんどんと街中に移動していくのであった。
 周囲には沿岸の何百という家々が運命を同じくしていた。
 大きな漁船も巨大な津波のエネルギーには抗えず翻弄されていた。

(いったい、どうなっちゃうのぉ…)
 まるで幼児のように退行し、何を為すこともできずにいたが、つい、昨日まで女子高生だった彼女は、おもむろにケータイに手を伸ばし、母親の短縮番号を押した。
 ちょっとの間の機械的な呼び出し音が、里奈にはどれほど永く感じたであろう。

「里奈ぁーッ!」
「お母さーんッ!」
 という、絶叫と涙声が互いの第一声であった。
「助けてぇー。お母さん」
「里奈ぁーッ!」
 と、母親はふたたび絶叫した。
 明らかに、母も動転していた。

「流されてるーッ。津波で、家ごと流されてるのよーッ」
 と里奈はケータイに向かって泣き叫んだ。
「だいじょーぶ。だいじょーぶだから…」
 と、母親はそれを何度も繰り返した。けど、その保障も、娘を助けてあげられる手立ても何もなかった。
「だいじょーぶだから、そのまま、じっとしていなさいよーッ」
 と母も泣きながら叫んだ。

「お母さん。怖い…。こわいよー」
 里奈は幼子のように泣きじゃくった。
 母も泣いた。どうしようもなくって。
「お母さん。どこ? 今、どこに居るの?」
 里奈は母の乳房を捜し求める乳児のように、その居場所を懸命に尋ねた。

「高台よ。家から見える高台に居るのよ」
 母は毅然として応えた。
「お母さん。私、死ぬの?」
 娘の切実な問いに、母は即答に息が詰まった。
 だが、すぐさま我に返って
「ばか。助かるにきまってる。助かるよ。だいじょうぶだから…」
 と幼な子を安心させる母のような語調で言って聞かせた。

「ホント? ほんとに?」
 里奈は何度もそう尋ねた。
「ぜったい。ぜったい、だいじょーぶなんだから。ぜったい助かるから、だいじょーぶだよ」
 母は泣きじゃくる娘に何度もそう勇気づけた。それは、自分に対するエールでもあった。もう、心が折れそうになっている。息子や旦那の所在も分らない。
 職場から高台へと揺れの後すぐに避難した母親もまた、眼前に展開する未だかつて見たことのない壮絶な破壊光景に魂を奪われていた。
 そこへ娘からの「流されている」との着信である。
 我が身は安全地帯にいながらも、まさに、生きた心地がしなかった。

 我が家の屋根色は、新築する際に娘の意見も取り入れて、明るいオレンジ色を選んだ。
 その鮮やかな色は、五百メートルほど離れた高台からもしっかり視認できるくらい目立ったものだった。
 しかし、今、母親が高台から眺める我が家の方向に、その色はどこにも見当たらなかった。
 今、家は娘を乗せたまま、上流に向かって押し流されていた。
 

 辛うじて、娘の消息は知れて、今こうして文明の利器によって話も通じていた。
 しかし、娘のこれからの運命をちらりとでも想像すると、母親は胸が締め付けられて息ができなくなった。
 そう。やがて水は引く。
 上流から下流に向かって。
 でも、その下流とは、あの大海原である。果てしない水平線を持つ海。津波がやってきた海へ、津波は帰るのである。
 その時、娘の乗った我が家舟は…。
 

 いやいや。どこかに引っかかることだって、大いにあり得る。
 いや。必ずや、そうなって、娘は助かるはず…。と、母親はそこに心の焦点を絞った。

「体ぬれてない?」
 電池の切れるまで、母娘は通話を切らさない覚悟でいた。
「ぬれてない…」
「だいじょーぶだからね。きっと、助かるから」
「うん…」
 娘は、母の励ましに幾分か自分を取り戻して、気丈夫になりかけてきた。
 でも、未体験の家舟、行き先の分らぬ道行き、荒れ狂う波頭、凄まじい轟音は、十八の女の子が勇猛に振舞うには手ごわすぎる試練であった。    

「もう、だめかな…」
 と里奈は弱気になった。
「バカッ。生きるのよッ!
 ぜったい、ぜったい、助かるんだから。
 諦めちゃダメッ!」
 母は、くじけそうになる娘を強くなじった。
 無理もない。自分ももう壊れそうだった。
 出来得ることなら、この逆巻く流れに飛び込んで娘を助けに行きたいくらいであった。
 しかし、それは、映画でも何でもないこの現実では、痛いほどに不可能なことだった。

(里奈ぁ。颯太ぁ。おとうさん…)
 母は祈ることと、ケータイの向こうの娘に勇気づけること以外、この場では何も為すすべがなかった。

 

 

 

 

 


リアルファンタジー『名人を超える』最終話

2022-10-15 09:34:47 | 創作

* 48 *

 フランクルは、その人が自分の運命を受け入れて、それに対してどういう態度をとるかということが、周囲に大きな影響を与える、と語った。          

                              養老 孟司

 

*         

 東京と大阪に続き、名古屋にも「将棋会館」が建てられた。 

 それというのも、ひとえに、棋界始まって来の「四〇〇年に一人の天才」とその弟子ゆかりの地であるからである。

 親子二代が「永世八冠」となるという偉大な事跡は、今後の将棋界に起こり得るかどうか、というほどの奇跡でもあった。

 そして、そのどちらも夭逝した。

 それゆえに、「伝説の棋士」ふたりとなった。

 会館の三階にある『藤野の間』はタイトル戦や重要な棋戦にのみ使用される特別対局室とされた。

 その床の間には、愛知が産んだ天才棋士ふたりの肖像画が飾られている。

 

 *

 

「なんだか、照れちゃいますね・・・」

 と、カナリが言った。

「でも、ここで、加奈梨ちゃんが、タイトル戦を闘ってくれるようになるのが楽しみだね」

 と、ソータが言った。

「ほんと・・・。そうですね・・・」

 と、カナリも、その日が来るのが楽しみでならないようだった。

「じゃ、まず、今晩にでも、お邪魔して、ふたりで一局指そうか?」

 と父が誘うと

「師匠。お願いします」

 と娘が応えた。

 

 

    

 

全編【縦書き/BGM】版

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