里奈は、どう死のうかと思案した。
JK(女子高生)お得意のWC(リストカット)をするか、いっそNC(ネックカット)をするか…。
カッターなら自室の勉強机の引き出しにある。
里奈は揺らぐ甲板のようなフローリングを歩み、それを取り出した。
ベッドに戻ると、窓に背を向けてチキチキと、ブレードを伸ばし、腕をまくりあげてみた。
うっすらと青みがかった静脈が見えた。
冷たい刃先を手首に当ててみた。
ダッパーン…と、うねりが外壁に打ち付けた。
ジュクジュクと泡を立てて、濁流がドアの下の隙間からさらに流れ込んできた。
(グズグズしていられない…)
と、頭では思うのだが、つい今朝方まで、都会での〈花の女子大生〉生活を夢見心地で待ち暮らしていたのである。
それが、その日の午後に、手首を切って自殺しよう、という百八十度「暗転」の人生を実現する勇気がどうして湧いてくるだろうか。
手首に銀色の刃先を当てたまま、後から後から涙がこぼれた。
悲しかった。悔しかった。怖かった。
(なんで、私が…
今、死ななきゃならないの…。
いったい、どんな悪い事をした、っていうの…)
それは、巨大地震と巨大津波を起こした自然か神に向かっての恨み言、泣き言であった。
(なんで…)
と再び疑問が繰り返した刹那、里奈はカッターをケータイ同様に部屋の隅に叩き付けた。
死ねなかった。
そう易々とは命を絶つことができなかった。
「だいじょーぶッ!
だいじょーぶだからッ!
ぜったい助かるから…
自衛隊…」
という母親の叫び声がこの期に及んで脳裏に浮かんだ。
それは不安と恐怖で、悲観の極みに陥り、束の間、死神にとり憑かれた彼女を救う慈母の言霊でもあった。
そうだ。たとえ万に一つの可能性だとしても、生きてさえいれば、生存確率は0%ではないはずだ。
自衛隊…
海上保安庁…
漁船…
報道関係ヘリ…
アメリカ軍…
理系大学に合格した里奈は、咄嗟に、感情から理性モードへとスイッチを切り替えた。
それは瞬時のことであった。
捨て鉢になって、泣き言と恨み言を言って自殺しようなんて…。
里奈は、自室に迫り来る海水と溺死の恐怖と闘っていた。
「頑張って、里奈ぁーッ」
と、檄をとばす母の声を耳に聞いた。
「だいじょーぶッ!
だいじょーぶだからッ!
ぜったい助かるから…
自衛隊…」
と、里奈は、母親の必死の叫びを復唱していた。
心が折れたらゲームセットになる。
テニス選手だった里奈は、経験でそのことをよく熟知していた。
(敵に怖れてはダメ。
相手をよく見極めなきゃ…)
死の虎口を撃破するのには、自らを鼓舞せねばならなかった。
(死んでたまるかッ)
里奈は、〈勇猛な自分〉が心の奥底から湧いて出てくるのを頼もしく感じた。
「♪オッモッい~ぃ、こぉーんだぁらー、試練ッ、の道ぃを~ッ♪」
なぜだか、ふいに、遠く昔、父の膝の上で見た古い野球アニメの主題歌が口をついて出てきた。
それは、自分へのエールだった。
同時に、父の膝の温もりと、いくらかヤニ臭い口元まで、記憶の底から甦ってきた。
なつかしい気持ちに浸りながら、里奈は父と一緒に唱和した日々に想いを馳せた。
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