『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

震災短編『太平洋ひとり』7

2022-10-31 08:30:07 | 創作

 一時間が過ぎた。

 里奈を乗せた家舟は、辛うじて浮力を失うことなく航行していた。
 だが、船室と化した寝室は、足元に小波が立つほどだった。

 家舟は周期的にゆったりと回転を続けていたが、もはや、どの方角にも陸地を見出す事は出来なかった。
 360度、見渡す限りの水平線。
 コンパスを持たぬ船長(ふなおさ)は、方向喪失感に呆然となった。

 水。水。水。
 海。海。海。

(ここは何処?…)
 
 太平洋をたった一人で漂流していた。
 食料も飲み水もない。
 トイレも使えず、乾いたタオルもない。
 もうすぐ、ベッドも水に沈むだろう。
 この『少女漂流記』の結末は、まだ誰にもわからない。
 
 里奈は沈没船のクルーとして、脱出時の救命具の準備に取りかかっていた。
 まず、ゴミ箱のポリ袋を取り出して、風船のように息を吹き込んで堅く結わえた。そして、すかさずセーターの下に入れて、腹抱きにした。
 ついでにプラ製のゴミ箱を逆さまにして、開口部をガムテープで幾重にも塞いだ。これは、わき腹のあたりにセーターの上からガムテープでグルグル巻きにして接着させた。
 他にも空気を溜めれそうな耐水性のものを選っては、小物箱だろうが、ビニルバッグだろうが、きっちりと密閉しては体にくくりつけた。
 些細なものでも掻き集めれば、人ひとりを浮かすだけの浮力を得られるはずである。
 
 地震で散乱した書棚の参考書や問題集などが、自室のプールで浮いたり沈んだりしていた。
 それは不思議な光景としか言いようがなかった。
 床上浸水はすでにニーハイ・レベルである。

 家の沈降速度は時間に比例するものとばかり里奈は考えていたが、臨界値を超えたら加速度的にドボン…と、いくことだって有り得た。
 時折、海水が窓ガラスにかかるようになった。
 それが、海面と同じ高さになったら、やがて水圧で圧壊するだろう。
 その時が、この家舟の終焉の時である。
 脱出のタイミングは、リハーサルなしの一発勝負だ。 

 命の瀬戸際。
 身一つでの漂流。
 鮫の餌食?…

 里奈のシミュレーションは、安易な楽観には傾き難かった。
 でもやるよりない。
 命を一分一秒でも永らえるために。

 その緊張感は、幼い日、初めての運動会で、徒競走の直前に感じたあの高揚感に近かった。
 交感神経の興奮が極みに達し、瞳孔が拡散し、拍動が高まり、血管は収縮する。
 これ以上の「命懸け」の時はなかろう。

 突然、大きなうねりが、家を10mほどグワン…と持ち上げた。
 それは津波の第二波だった。
 波の頂上から谷に落ちる時、里奈は飛行機の急降下時に感じる、あのマイナスのGを体感した。
 その時、家舟も船体にマックスの負荷を受けて、扉は海水圧で吹き飛ばされ、里奈は全身濡れ鼠になった。 

 押し寄せた海水は、一挙に寝室の窓の位置まで達した。
 今しかなかった。
 水圧で窓が開かなくなる。
 里奈はこの機を逃さずに、窓を全開にし、大洋に身を投じた。

 今開けたばかりの窓から大量の海水が一気になだれ込んだ。
 瞬時にして家は沈降し、二階のオレンジ色の屋根のみが海面にわずかに浮かんでいた。
 そこにも空気溜まりがあったのだろう。

 里奈は、その鮮やかな色合いの屋根までバタ足で近づいて、突端に手を伸ばした。
 そして、スヌーピーのように、その屋根の上に仰向けになった。
 もはや、それは舟でもなんでもなかった。そのほとんどを海面下に没した漂流物の一部でしかなかった。

 

      


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