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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

震災短編『贖罪』8

2022-11-14 12:00:44 | 創作

 

 古代ギリシアに、こういう判例がある。

 ある船が座礁し難破した折、一人の水夫が壊れた船の板切れにすがりついて助かった。
 するとそこへ、別の一人の水夫が泳いできて、その同じ板切れにつかまろうとしたが、先の水夫は、その者を突き飛ばして溺死させてしまった。

 救助された後に行なわれた裁判では、この水夫は殺人の罪に問われなかった。

 これは、古代ギリシアの哲学者・カルネアデスが出した問題とも言われることがあり、『カルネアデスの舟板』とも呼ばれるものである。
 この例えは、現代でも、法的には刑法第三十七条「緊急避難」の例として、よくあげられるエピソードである。

 

 圭子の衝動的行為は、まさにその「カルネアデスの舟板」だったのであろうか…。
 であるならば、『蜘蛛の糸』のカンダタも、緊急避難であったとは言えないのだろうか…。


 しかし、人道的には、賛否が分かれる処かもしれない。
 同情はするが、いざとなったら何をするか判らない女、というので、配偶者に選ぶには躊躇する男もいるやもしれぬ…。

     

          

 


震災短編『贖罪』6

2022-11-12 09:58:48 | 創作

 

 汚濁した潮水の中で、痛む目を見開いて見ると、必死の形相で、老婆が自分の片足にすがって、しっかと目を見開いていた。 

 水中で、すでに十分なパニックに陥っていた圭子は、更なる瀕死の状態に陥れようとしている見知らぬ〝足手纏(まと)い〟な老婆に恐怖した。

(やめてぇ~)
 と、脳内でそう叫んだ。

 そして、本能的に、反射的に、片足に縋(すが)りつく老婆を、文字通り〝足蹴(あしげ)〟にした。

 もう片方の足で、必死の形相の老婆の顔面に一撃を喰らわせたのである。

 それでも、老婆は、懸命に一度つかんだ命綱を放すまいと、剛直に縋り付いていた。
 その様は、まるで紐(ひも)にこびり付く牡蠣のようでさえあった。

(いや~ッ!) 

 圭子は、老婆の一途な執念に恐れ慄(おのの)いて、渾身の力を込めて猛撃を放った。 

 必死の老婆も、寒冷の水中では、そう長くは体力が持たなかった。

 若者の死ぬ思いの一蹴で、憐れ老婆は、命綱を切られた宇宙飛行士のように、ゼロ・グラビティ(無重力)の水中に漂う木っ端と一緒に、流れに持っていかれた。


 白髪が舞い、哀しげな眼と、恨めしげな眼をした最後の姿が、圭子の眼底にしっかり焼き付けられた。

 そして、自分は助かった。

 

 

        

 


震災短編『贖罪』4

2022-11-10 09:00:28 | 創作

 

 圭子が入室するなり、女医はその全身から「うつ」のオーラを感じ取った。

「いかがでしたか?」
 と優しく声をかけると、患者は疲れたような顔をあげて
「すこし…眠れるようになりました…」
 と、蚊の鳴くようなか細い声で応えた。

「そうですか。
 それは、よかったですね。
 食欲はいかがですか?」
「はい。あまり…」
 と、うな垂れたまま応えた。 

 女医は、生気のない患者を前に言った。
「どうも、少し、〈うつ〉のようですので、お薬を一種類増やしますね」
 圭子は、言われるままに、首肯した。

 この様子では、前回の続きは訊き出せないと踏んで、こう提案してみた。
「田川さん。
 今はお辛そうで、あまりお話し出来そうないようなご様子ですので、ご気分のいい時にでも、トラウマとなった出来事について、メモのようなものでも構いませんから、書いて持ってきては頂けませんか?」 

 圭子は、女医とほんのちょっとだけ目を合わせると、静かに
「はい…」
 と応えた。  

 女医は、患者の電子カルテに
〈パキシル 10㎎〉
 十四日分…を追加した。 
 そして、診断名の欄には、ASD〈急性ストレス障害〉、「抑うつ状態」と加筆した。

 医師から出された課題は、心を病む圭子にとっては、かなりシンドイほどの精神的エネルギーを費やす仕事だった。
 第一、恐ろしくて、何から書き出してよいかさえ見当が付かなかった。

             

               

 

 

 


震災短編『贖罪』3

2022-11-09 08:26:15 | 創作

 

 服薬を開始するや、初めて飲む睡眠導入剤のおかげで、圭子はいくらか眠れるようにはなった。
 しかし、入眠は楽にはなったものの、早朝に覚醒し、しかも熟睡感は得られていなかった。
 そして、まだ誰にも言えていない、恐ろしいイメージのフラッシュバックは、依然として彼女を苦しめていた。
 そればかりは、いくら安定剤の力をもっても、消し去ることは不可能であった。
 

 彼女は、あの日以来、食欲は失せ、あらゆることに対する興味関心が失せていた。
 職場も津波で全壊したので、現在は、辛うじて津波の被害を免れた実家で自宅待機となっていた。


 眠れない、食べれない、という日が続けば、どうしたって生き物である以上、憔悴は免れなかった。
 両親、妹も心配して、好物を作ったり買ってきたりしては、勧めてみたが、どれも彼女の喉を通るものではなかった。
 母親は、津波に呑まれた衝撃・恐怖による心の不調と見ていた。
 それで、
「ゆっくり休んでいれば、大丈夫よ」
 と、安心感の提供を怠らなかった。
 
 圭子はみるみる痩せていった。
 元々、スリムな体型だけに、まるで一挙に数歳も老けたかのように頬がこけ、骨ばった表情になった。
 

 まだ高3の妹は、
「お姉ちゃん。生理もないみたい。大丈夫かなぁ…」
 と両親と不安を分け合っていた。

「明日は、私が一緒に病院に行ってみます…」
 と、母親が言った。
「うん。そうした方がいいだろう」
 と、父親もそれに賛同した。

 


震災短編『贖罪』2

2022-11-08 08:19:58 | 創作

 当然話さねばならないストレスの原因を、誰かに話すのは、圭子にとって、これが初めてであった。

 不眠の治療に来た、というよりも、その恐ろしい体験を告白し、その桎梏から解放されたいという思いの方が遥かに強かった。

「津波に呑まれたんです…」
「はい…」

「そして、流されたんです…」
「うん…」

「その時…」
 と言ったきり、圭子の口は絶句した。 

 女医は、二の句が出るまで、しばらく辛抱強く待ってくれた。
 しかし、それっきり涙しかでず、ハンカチで目頭を押さえたまんまの状態で凝り固まって、先に話は進まなかった。

 そのままでは埒が明かないので、女医が助けを出した。
「その時、何か辛い事を体験されたんですね」
 という言葉に、圭子はハンカチで顔を覆ったまま頷いた。 

 そして、やがて嗚咽をあげはじめた。
 それが、よほどの衝撃的な出来事であったことが、容易に察せられた。

「今日は、お話しするのが、大変そうでしたら、次回でもけっこうですよ」
 圭子は、その言葉に救われたかのように、無言で首肯した。

「それでは、とりあえず、眠剤と安定剤をお出ししますので、それを服用されて、気分が落ち着かれましたら、また、今日のお話しの続きを次回に伺います」
 そう、告げると、女医は、パソコンに向かって、

〈ロヒプノール 1㎎
 ソラナックス 0.4㎎〉
 を七日分処方した。 

 これは睡眠導入剤と抗うつ作用もある精神安定剤であった。