『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

創作童話『お母さん』

2022-12-12 08:57:52 | 創作

  お 母 さ ん 

 

  暗い夜がしだいに青くなり、やがて水色に変わろうとしていた明け方ごろです。
「クゥーン。ウォーン」
  という、まるで地の底から湧きでるようなうめき声が、あたり一面にこだましました。
  それは聞くものの魂をゆさぶる悲鳴のようでした。

  ボンが、泣いていたのです。
  ボンは、お母さん犬です。

  まだみんなが寝静まっている夜明け前。
  お母さんボンは縁の下で、悲しみに打ちひしがれた顔で、目を赤く泣きはらしていました。

「ウォーン。クォーン」

  その泣き声は、まるでこの世のかなしみが集まってできた『湖』から、いきおいよくあふれ出る流れのようでした。
 

 前の晩のことです。
  お母さんボンは半年もいっしょに暮らしていた男の子を、目の前で連れ去られてしまったのです。
  飼い主の家では、
「やっともらい手が現れた」
  と言ってよろこんでいました。
  ですが    お母さんボンにとっては、初めて生まれた大切な、大切な、可愛い、可愛い子どもをうばわれてしまったのです。

  お母さんボンは三日三晩うめきました。
  食事ものどを通りません。
  光るような毛並みの、若かったお母さんボンは、このときを過ぎてから、目はしょぼしょぼ、白い毛もふえて、見るからに「お婆さん」のようになってしまいました。

  その後も、お母さんボンは何度か子どもを産みました。
  しかし、自分の子どもが目の前で連れ去られようというときでも、もう吠えたり、泣いたりはしませんでした。
  何年かあとに、あの泣き別れた男の子が、飼い主に連れられて、偶然、お母さんの前に姿をあらわしました。
  お母さんは    というと、
「わが子・・・ 」
  とは思ったのでしょうか。
  ただ一声、小さく
「ワン・・・ 」
  と、吠えただけでした。

  かつて、お母さんにじゃれついて叱られたり、甘えてお乳をもらっていた男の子。
  お母さんの胸に顔をうずめて、安らかに眠っていた男の子    。
  それは、かなしい母と子の再会でした。

  たくさんいたボンの子どもたちで、最後にのこったのは「タロタロ」だけでした。
  タロタロは体の大きさが、お母さんの倍もある、光るようにつややかな毛並みの子です。
  はじめはみんながタロタロは「男の子」だと思っていました。
  でも違いました。
  それは、ある日、タロタロのお尻を、ボンがなめていたことでわかりました。
  お母さんボンはタロタロが「女の子」であるということを知っていたのです。
  「女の子」が「お母さん」になる用意ができたとき、タロタロもお尻から赤い血を流しました。それを、お母さんボンは、毎日、毎日なめてあげていたのでした。

  ずいぶんと歳をとってから、お母さんボンは  シキュウキンシュ  という病気にかかりました。
  おなかの中に大きなできものができて、毎晩、毎晩、痛くて、痛くて、苦しみました。

「クゥーン。クォーン」
  と一晩じゅう泣く声は、聞くものの耳をも痛めました。

  お母さんボンは、お尻からたくさんの血を流しました。
  タロタロはそばにいて、いっしょうけんめいにお母さんのお尻をなめました。

  飼い主も、お母さんボンをお医者さんに診せましたが、お医者さんは、ただ首を横にふるだけでした。
  やがて、お母さんボンはやせおとろえて、小犬のように小さくなってしまいました お医者さんが、黒いカバンをさげてふたたびやって来たときです。

「ウォン!  ウォン!  ウォン!」
  と、タロタロは大声で吠えさけびました。

  お医者さんは、お母さんボンの背中をやさしくなでると、その小犬のように小さくなった手に、青い注射をそっと打ちました。
  お母さんボンは、それから静かに目をとじました。

  いま、タロタロは小犬のときのボンのように、元気いっぱいに吠え、元気いっぱいに走りまわっています。

 

            

 

 

 

 

 

 

 

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震災短編『決断』最終話

2022-12-07 06:44:41 | 創作

 

 津波の悲劇から十一年過ぎた今でも、三陸小学校の校舎はひっそりと残っていた。

 今はもう、何処からも子どもたちの歓声は聞こえもせず、そこはもう文字通りの廃墟と化していた。

 この十一年の間。

 多くの児童と教職員が亡くなったこの校舎跡をどうするか、ということが、遺族や市側、有識者たちの間で論議尽くされ、解体派と保存派とが、喧々諤々したが、結局は保存することに落ち着いた。 

 それは、そのままではなく、後世に伝えるべき震災遺構として整備されることになった。
 それも人々が懊悩したうえに採択したひとつの「決断」でもあった。

 三陸小学校は、未来への日本遺産となったが、それはまた、再び悲劇を繰り返さないための世界遺産と言ってもよかった。

 

      

 

 

 

 

 

 

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震災短編『決断」8

2022-12-06 08:44:57 | 創作

 あれから十一年の歳月が流れた。
 
 大切な我が子の命を信頼して預けた学校が、それを護ってはくれなかったことに、どうしても得心がいかず、志を同じくする遺児の保護者たち数十名が、市を相手取って訴訟を起こした。
 これは、現在も係争中である。
 学校の責任を司法がどう判断するのか、全国の教育関係者は固唾を呑んで見守っている。

 あれから、A教諭は長い病休に入った。
 その診断名はPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。
 さもありなん、という診断であるし、当然の休職であろう。 

 A教諭は、あの惨劇の直後に、遺児の保護者たちに、謝罪の手紙を認(したた)めている。
 それは、マスコミにも公開もされ、精一杯の誠意と慙愧の念が読む者に伝わってくる内容であった。

 どのような事故、事件でも、あの時、こうだったらば…、こうしていれば…という「たら」「れば」論が、当事者の胸には去来するものである。
 それを「後悔」というのだが、詮無い事とは解っていても、人はこの「たら・れば」に苦しめられるのである。

 また、「サバイバーズ・ギルト」というのもあって、これは、なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろう…という、良心の疼きでもある。

  

      

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震災短編『決断』7

2022-12-05 08:07:10 | 創作

 この日。
 娘の結婚式で、学校に不在だった校長もまた、この未曾有の大惨事に呆然自失するよりなかった。 

 学校の最高責任者ではあるが、と同時に、私人としては、一家の長でもあるから、その拠所ない家庭事情による不在を責めることは誰にも出来なかった。  

 だが、校長も懊悩の日々を送った。
 自らの不在の折には、信頼する教頭が学校を指揮してくれるし、ベテラン教諭もいるからこそ、安心して出張にも出れるし、私用による有休も取れるというものである。
 しかし、この日。
 その教頭もベテラン教諭も、子どもたち共々、津波に呑み込まれて亡くなった。
 なんと、痛ましい災害であったことだろう…。

 校長の憔悴加減は、九死に一生を得たA教諭のそれとも似ていた。
 遺児たちの遺族への対応も日々、応じなければならなかった。
 説明会の準備、非難されることの覚悟、マスコミへ晒されること…等など。
 そのストレスは、胃に潰瘍を生じさせるほどのものであった。
 この災害後、彼もまた、文字通りに、食べ物が喉を通らなかった。
 

 ・・・あの子も、あの子も、みんな、死んでしまった・・・。


 平気で物が食べられる道理がない。

 嫁いだ娘が心配して、父親の好物を買ってはしばしば実家を見舞ったが、どんなに努力しても、食べ物を前に嘔吐(えず)いてしまうその姿は、哀れというよりなかった。
 それこそが当事者を襲った対象喪失ストレスであった。
 だが、彼もまた、遺児や殉職した同僚たち、その遺族の手前、逃げて何処ぞへ引き篭もるわけにもいかなかった。
 それが、管理職として採るべき責任でもあった。
 彼もまた、公(おおやけ)の前に姿を現し、堂々と遺族の憤懣やる方ない思いを受け止めよう…と、そう決断した。

 

       

 

 

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震災短編『決断』6

2022-12-04 08:50:46 | 創作

 

 A教諭は、生きる「決断」をした。

 そう。

 生きて、この惨劇を後世まで語り継がねばならない「語り部」としての使命が自分にはある、と悟ったのである。 

 何かと口さがない地方の街ゆえ、多くの子どもたちの命を救えなかった教員にとっては、身の置き処がない辛いものがあった。 

 陰でどんなことを言われているかを想像するだに身が切られる思いがするし、ましてや、匿名性の隠れ蓑をいいことに、他人の死すら平気で揶揄する輩(やから)も跋扈するネット空間では、どれほどの誹謗中傷がなされることか…。 

 無論、仕方なかった、不可抗力であった…という、擁護論もあるだろうが。 

 しかし、実際にあの地獄のような津波の惨劇を目撃し、今ここで、生き残った地獄を生きているA教諭にとっては、子どもたちや、その親たちに申し訳ない気持ちで、他の考えが入り込む余裕なぞ微塵もなかった。 

 今はただ、子どもたちと、その親たちに詫びたい、すまないという気持ちで一杯であった。

 ただ、それだけであった。

 

       

 

 

 

 

 

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