あれから十一年の歳月が流れた。
大切な我が子の命を信頼して預けた学校が、それを護ってはくれなかったことに、どうしても得心がいかず、志を同じくする遺児の保護者たち数十名が、市を相手取って訴訟を起こした。
これは、現在も係争中である。
学校の責任を司法がどう判断するのか、全国の教育関係者は固唾を呑んで見守っている。
あれから、A教諭は長い病休に入った。
その診断名はPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。
さもありなん、という診断であるし、当然の休職であろう。
A教諭は、あの惨劇の直後に、遺児の保護者たちに、謝罪の手紙を認(したた)めている。
それは、マスコミにも公開もされ、精一杯の誠意と慙愧の念が読む者に伝わってくる内容であった。
どのような事故、事件でも、あの時、こうだったらば…、こうしていれば…という「たら」「れば」論が、当事者の胸には去来するものである。
それを「後悔」というのだが、詮無い事とは解っていても、人はこの「たら・れば」に苦しめられるのである。
また、「サバイバーズ・ギルト」というのもあって、これは、なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろう…という、良心の疼きでもある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます