3・11の時に、実際に聞いた悲劇が、どうにも胸に治まらなくて、そのイメージを夢にまで見るほどトラウマになったので、思い切って、フィクションを創作して吐き出すことにした。
被災された個人名は存じ上げないが、ご本人のご冥福と、ご親族の「たましい」の助かりを、心から祈念するものである。
***
1
3月11日。
あの日、里奈は卒業式であったが、あいにくと風邪をこじらせて二階の自室の床に伏していた。
そして、午後二時四十六分。
恐ろしいばかりの地鳴りと共に家が大きく揺れ、本棚からありとあらゆるものが飛び出して、しまいには本棚そのものが凄まじい音を立てて倒れ伏した。
両親は仕事に出掛けており、弟も学校であった。
家にひとり伏せっていた里奈は、ベッドで布団をかぶって悲鳴を上げるよりなかった。
恐ろしい揺れは、間隔をおいて、三度襲ってきた。
バキバキッという何かが折れる音が窓の外から聞こえてきて、里奈の恐怖心をさらに煽った。
「お母さ~ん。助けてぇ~ッ」
と、里奈は布団をかぶりながら泣き叫んだ。
激しい揺れが治まっても、しばしの間、布団から顔が出せないほど彼女はパニックに陥っていた。
風邪で体がだるくて思うように動かない、ということもあった。
里奈は、恐怖心に体を強張らせながら、布団に包まっているより為すすべがなかった。
その間にも、動悸が高鳴るような余震が何回も部屋全体をゆらして、そのたびごとに
「いや~! 助けてぇ~ッ」
と泣き叫び続けた。
もう室内は、足の踏み場もないほどに、あらゆるものが散乱している。
枕元のケータイは三分おきほどに「地震警戒チャイム」がなった。
里奈の十八年の人生で一度も経験したことのない、あきらかに異常な事態が発生していた。
ケータイのチャイムがなるたびに部屋は音を立てて揺れた。
窓の外には、ちらちらと雪が舞っている。まだ、冬の終わりといってもよかった。
何回目かのチャイムが鳴り響いた頃、里奈は揺れやまないベッドの布団の中で、聞きなれない、低いホワイト・ノイズを耳にした。
聞き覚えのないそれは、次第にヴォリュームを増し、ゴーッという唸りのなかに、メキメキ、バキバキという音を含んでいた。
里奈は本能的に破壊的な何かがこちらに迫ってくるのに恐怖した。
それは、やがて轟音になり、濁流のような水音と感じた瞬間、ダダーンッと、家の壁に激突した衝撃を感じた。
(なにッ?)
里奈は布団の中で頭が真っ白になった。
(今度はなんなのッ?)
里奈はその不明の爆音の正体に布団から顔を出して確かめる勇気が起きなかった。
それは、水がゴンゴンと流れる凄まじい音だった。
(エッ? 何なの~…)
ドッカン、ドッカンと、次々に家の壁に何か巨大なものがぶち当たった。
それは、布団の中の里奈には、巨大なモンスターが街を踏み潰しているかのような衝撃であった。
勇気を振り絞って、布団の隙間から、ちらりと窓の外を見て、里奈は肝をつぶした。
なんと、どこかの家が何軒も目の前を流れてゆくのである。
(津波…?)
ここにおいて、里奈は初めてモンスターの正体を知った。
大津波だった。巨大津波だった。
自分のいる家もすでに一階部分は水没していた。
(何なのこれ…?)
恐怖のなかにも、唖然とした気分が湧きあがった。
幸いにも、津波は二階の窓ギリギリのところまでの水位である。
しかし、窓の外は、見渡す先まで海の中にいるような光景が広がっていた。
磯臭い、潮の香りが部屋の扉からなだれ込んできた。
階段が海水に浸ったのだろう。
里奈は蒼ざめた表情で、窓の外を流れる何軒もの家々を見送っていたが、この先起こるであろう、我が家と我が身の運命なぞ、つゆも想像できなかった。
十八年の生涯で、聴いた事もないような自然が発する大音声に、うら若い女の子は震えるよりすべがなかった。
その時だった。地震とは明らかに違う揺れが里奈を襲った。
それはガコンッという衝撃に続いて家が何かから外れて浮き上がったような感覚であった。
我が家が浮かぶ舟になった瞬間である。
(うそ~ッ…)
里奈は、新たに半泣きになって、浮遊して流れ始める舟のような感覚に、血が引くような寒気を感じた。
遠くに見える高台が、まるで不動の北極星のようにそこに留まってあり、自分を乗せた家の船は流れに乗ってどんどんと街中に移動していくのであった。
周囲には沿岸の何百という家々が運命を同じくしていた。
大きな漁船も巨大な津波のエネルギーには抗えず翻弄されていた。
(いったい、どうなっちゃうのぉ…)
まるで幼児のように退行し、何を為すこともできずにいたが、つい、昨日まで女子高生だった彼女は、おもむろにケータイに手を伸ばし、母親の短縮番号を押した。
ちょっとの間の機械的な呼び出し音が、里奈にはどれほど永く感じたであろう。
「里奈ぁーッ!」
「お母さーんッ!」
という、絶叫と涙声が互いの第一声であった。
「助けてぇー。お母さん」
「里奈ぁーッ!」
と、母親はふたたび絶叫した。
明らかに、母も動転していた。
「流されてるーッ。津波で、家ごと流されてるのよーッ」
と里奈はケータイに向かって泣き叫んだ。
「だいじょーぶ。だいじょーぶだから…」
と、母親はそれを何度も繰り返した。けど、その保障も、娘を助けてあげられる手立ても何もなかった。
「だいじょーぶだから、そのまま、じっとしていなさいよーッ」
と母も泣きながら叫んだ。
「お母さん。怖い…。こわいよー」
里奈は幼子のように泣きじゃくった。
母も泣いた。どうしようもなくって。
「お母さん。どこ? 今、どこに居るの?」
里奈は母の乳房を捜し求める乳児のように、その居場所を懸命に尋ねた。
「高台よ。家から見える高台に居るのよ」
母は毅然として応えた。
「お母さん。私、死ぬの?」
娘の切実な問いに、母は即答に息が詰まった。
だが、すぐさま我に返って
「ばか。助かるにきまってる。助かるよ。だいじょうぶだから…」
と幼な子を安心させる母のような語調で言って聞かせた。
「ホント? ほんとに?」
里奈は何度もそう尋ねた。
「ぜったい。ぜったい、だいじょーぶなんだから。ぜったい助かるから、だいじょーぶだよ」
母は泣きじゃくる娘に何度もそう勇気づけた。それは、自分に対するエールでもあった。もう、心が折れそうになっている。息子や旦那の所在も分らない。
職場から高台へと揺れの後すぐに避難した母親もまた、眼前に展開する未だかつて見たことのない壮絶な破壊光景に魂を奪われていた。
そこへ娘からの「流されている」との着信である。
我が身は安全地帯にいながらも、まさに、生きた心地がしなかった。
我が家の屋根色は、新築する際に娘の意見も取り入れて、明るいオレンジ色を選んだ。
その鮮やかな色は、五百メートルほど離れた高台からもしっかり視認できるくらい目立ったものだった。
しかし、今、母親が高台から眺める我が家の方向に、その色はどこにも見当たらなかった。
今、家は娘を乗せたまま、上流に向かって押し流されていた。
辛うじて、娘の消息は知れて、今こうして文明の利器によって話も通じていた。
しかし、娘のこれからの運命をちらりとでも想像すると、母親は胸が締め付けられて息ができなくなった。
そう。やがて水は引く。
上流から下流に向かって。
でも、その下流とは、あの大海原である。果てしない水平線を持つ海。津波がやってきた海へ、津波は帰るのである。
その時、娘の乗った我が家舟は…。
いやいや。どこかに引っかかることだって、大いにあり得る。
いや。必ずや、そうなって、娘は助かるはず…。と、母親はそこに心の焦点を絞った。
「体ぬれてない?」
電池の切れるまで、母娘は通話を切らさない覚悟でいた。
「ぬれてない…」
「だいじょーぶだからね。きっと、助かるから」
「うん…」
娘は、母の励ましに幾分か自分を取り戻して、気丈夫になりかけてきた。
でも、未体験の家舟、行き先の分らぬ道行き、荒れ狂う波頭、凄まじい轟音は、十八の女の子が勇猛に振舞うには手ごわすぎる試練であった。
「もう、だめかな…」
と里奈は弱気になった。
「バカッ。生きるのよッ!
ぜったい、ぜったい、助かるんだから。
諦めちゃダメッ!」
母は、くじけそうになる娘を強くなじった。
無理もない。自分ももう壊れそうだった。
出来得ることなら、この逆巻く流れに飛び込んで娘を助けに行きたいくらいであった。
しかし、それは、映画でも何でもないこの現実では、痛いほどに不可能なことだった。
(里奈ぁ。颯太ぁ。おとうさん…)
母は祈ることと、ケータイの向こうの娘に勇気づけること以外、この場では何も為すすべがなかった。
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