「里…だいじょ…」
ケータイの音声が突然、途絶えた。
そうだ。陸から数キロも離れた洋上では圏外になってしまうのだった。
母との〝つながり〟はそこで途絶した。
バッテリーはまだ十分にあった。
陸地と洋上で、母娘共にそのことに気付いたときは、暗澹となり、母親は膝折れ、地面に突っ伏して泣いた。
娘は憎しみをこめてケータイを部屋の隅に叩きつけた。
孤立無援となった。
まだ陸地が見えるものの、家舟は無常にも、沖へ沖へと流されていく。
やがて津波の引き波から潮の流れに乗ったら、太平洋を横断しかねない。それまでこの華奢な、にわかづくりの新造船が持つはずもなかった。
海上は少しばかりうねっていた。
ザザーン…っという、大波が壁面にぶつかった拍子に、ドアの下からササーッと海水が浸入してきた。
「いや~ッ!」
里奈は嘆きの悲鳴をあげた。
「死」が虎口を開けて一歩一歩彼女に近づいてきた。
「お母さぁ~ん…。
たすけてぇ~…」
この春、晴れて大学生になるはずだった娘は、少女のようになって目蓋の母にすがった。
「死にたくないよぅ・・・…」
その時、また濁った水がズルリと床の上を滑るように入ってきた。その焦げ茶色の魔手は、しだいに里奈の座すベッドに手を掛けようとしていた。
「お父さぁ~ん…。
たすけてぇ~…」
安否も分らぬ父に、幼い日、その膝の上でうたた寝をした父に、里奈はすがった。
母親の声に励まされ、つい先刻まで気丈さを保っていた娘は、通信途絶を境に、気弱な船長(ふなおさ)に堕してしまった。
絶望・・・。
【望みがないこと】
ついこないだまで受験生だった里奈の脳裏に、そんな辞書的な単語が浮かび上がった。
真新しいフローリングを汚しながらジワッジワッと侵襲してくる海水。潮臭い室内。窓の外には、鉛色の天空から舞い降り飛び交う小雪の風花(かざばな)。
里奈の頭からは、母親の言った「自衛隊」も「海上保安庁」も「漁師」も消えていた。
(死ぬんだ。わたし…)
悲観の極みの中で、里奈は諦念も覚悟も持てぬまま、この覚めない夢のような現実のいきつく果てに待っているのが、方程式の唯一の解であることだけは識っていた。
里奈はフローリングの汚点を凝視しながら、しばし虚脱状態に陥った。
頬に幾筋もの涙が走った。
石膏像のように固まって思考は停止した。
まさに虚脱…。
いっそのこと、魂だけがこの肉体を幽離して高台の母のもとへ翔んでいけたら…。
(そうだ。死のうッ!)
非常時に、健全な娘に閃いたのは、平時ならば、全くもって不健全な閃きであった。
(このまま、ジワジワと恐怖に苛まれて狂い死にするより、潔く、自ら命を絶った方がいいに決まってる…)
それは、法律で婚姻可能な十八歳の青年成人が下した決断だった。
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