イエスが誰であるか

 「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。
 わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」(マルコ8:16-21)

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 弟子たちは、イエスと寝食を共にして行動している。
 五千人の給食、四千人の給食を、目の当たりにしてきた。
 ほかにも、病人のいやし、体が不自由な人へのいやしの場に、何度立ち会ったことだろうか。

 それでも、このイエスが誰であるのかが分からず、悟らない。
 イエスと、まだ出会っていないのだ。
 目はあっても見えず、耳はあっても聞こえない。

 おそらく、イエスは毎日、私たちの戸を叩き続けていることだろう。
 私たちが気付かないだけなのだ。
 目はあっても見えず、耳はあっても聞こえない。
 だが、恵みによって、否が応でも見聞きすることとなる。
 その日を迎えるまでは、産みの苦しみの日々が続く。ヨブと同じだ。
 ちなみにイエスの弟子たちは、復活のイエスを間近にしている。

 イエスが誰であるかがはっきりと分かると、その人は自身の罪が赦されていることも悟ることとなる。

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準備

 「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」(マルコ7:25-29)

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 異邦人であるギリシヤ人の娘をイエスがいやす記事。

 イエスは当初、まずはユダヤ人からだ、と断る。
 だが、このギリシヤ人はあきらめない。
 「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
 この信仰にイエスは感嘆し、彼女の娘をいやす。

 このギリシヤ人は、あらかじめ準備をしていたのだろう。
 イエスから断られることは、はなから織り込み済みだったのだ。
 断られてもなんとか食いつこう、そういう心の準備だ。

 このように、イエスと出会うためには、予め心の準備をしておくことが必要になってくる。
 それはそれほどおおげさなものではなく、「イエスに出会いたい」、「罪赦されたい」という渇望の類だ。
 そういう準備のない人が恵みに預かるとは、個人的には思えない。
 ともしびのたとえ(マタイ25:1-13)も同じである。油を準備しない人は、恵みに預かれなかった。
 このギリシヤ人は、もともと恵みに預かる立場にはなかったにもかかわらず、準備あって、イエスの恵みに預かっている。

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罪を犯さなかったイエス

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 受肉したイエスが受けた誘惑。

 もしイエスが神であったなら、そもそも空腹を覚えることはない。
 空腹を覚える、それはすなわちアダムの肉をイエスが身につけている、ということを意味する。
 アダムの肉とは、私たち人間と全く同じ、罪深い肉だ。
 イエスは、この罪深い肉を持った神なのである。

 その罪深い肉を持ちつつも、イエスは律法(ここでは申命記)を遵守して罪を犯すことなく、神の御前にただしい存在であり続ける。
 罪のない肉、それがイエスなのだ。
 イエスが罪を犯さなかったというのは、この意味においてである。
 そのように罪なき身であるにもかかわらず、極刑の十字架に架かってその肉を処分し、復活のイエスを信じる者に罪の赦しを与え続けている。

 私たち罪深い肉は、常に誘惑を受け続け、そしていつも罪を犯し、それでもキリスト・イエスの恵みの故にその罪を赦していただいている。

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