切り捨てる

 「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコ9:43-47)

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 「いのち」(ここでは天の御国)に入ることとゲヘナに投げ込まれることの違い。

 「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。」と言うときの「つまずき」とは、何によって「つまずき」と判断されるのだろうか。
 いうまでもなく、律法である。
 律法に照らして手が違反するならば、その手を切り捨てよ、足なら足を、目なら目を、ということである。
 ここでは、手とか足とか目とか、そういう個々のパーツを言っているわけではない。
 なぜなら私たちは、どうじたばたしても、神の律法に照らしてその肉自体が違法なのである。
 それゆえ私たちは、いのちにはいるためには、この罪の肉全体を切り捨てる必要がある。
 そのことなしには「いのち」に入ることはできず、イエスによれば、そうではない方、すなわちゲヘナに投げ込まれてしまう。罪が切り捨てられていないからだろう。

 イエスは、極刑の十字架に架かって、文字通り死ぬという切り捨て方をしてみせた。
 そのお手本同様に、私たちは自身の十字架に死んで初めて、イエス同様復活して「いのち」に入ることができる。
 そしてそれは、恵みによりやってくるものであり、自分から求める類のものでは全くない。

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