罪を犯さなかったイエス

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 受肉したイエスが受けた誘惑。

 もしイエスが神であったなら、そもそも空腹を覚えることはない。
 空腹を覚える、それはすなわちアダムの肉をイエスが身につけている、ということを意味する。
 アダムの肉とは、私たち人間と全く同じ、罪深い肉だ。
 イエスは、この罪深い肉を持った神なのである。

 その罪深い肉を持ちつつも、イエスは律法(ここでは申命記)を遵守して罪を犯すことなく、神の御前にただしい存在であり続ける。
 罪のない肉、それがイエスなのだ。
 イエスが罪を犯さなかったというのは、この意味においてである。
 そのように罪なき身であるにもかかわらず、極刑の十字架に架かってその肉を処分し、復活のイエスを信じる者に罪の赦しを与え続けている。

 私たち罪深い肉は、常に誘惑を受け続け、そしていつも罪を犯し、それでもキリスト・イエスの恵みの故にその罪を赦していただいている。

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