裏切り

 「ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。」(マルコ14:10-11)

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 イスカリオテ・ユダが、イエスを裏切るために動き出す。

 ユダが何故イエスを裏切るのか、それは全く分からない。
 また、そのことをことさら探ろうとすることは、聖書の目的とするところからはそれてしまう。
 ともかく、イエスを裏切るべく動き出した高弟が出てきたのである。

 イエスの周囲のすべてが、十字架に向かっている。
 確かに、この十字架のためにイエスは来られた。
 だが、このような形で流れが動くことを、果たしてイエスは見通していたであろうか。
 およそ人間関係の中で、裏切りほどつらいものはない。
 だから私たちは、自分たちがそのような目に遭ったとき、その苦しみは主イエスが(すなわち神が)経験されてご存じであることに心を重ね合わせてみよう。
 この神がどちらの方を憐れむかは、言うまでもないだろう。

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