準備

 「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」(マルコ7:25-29)

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 異邦人であるギリシヤ人の娘をイエスがいやす記事。

 イエスは当初、まずはユダヤ人からだ、と断る。
 だが、このギリシヤ人はあきらめない。
 「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
 この信仰にイエスは感嘆し、彼女の娘をいやす。

 このギリシヤ人は、あらかじめ準備をしていたのだろう。
 イエスから断られることは、はなから織り込み済みだったのだ。
 断られてもなんとか食いつこう、そういう心の準備だ。

 このように、イエスと出会うためには、予め心の準備をしておくことが必要になってくる。
 それはそれほどおおげさなものではなく、「イエスに出会いたい」、「罪赦されたい」という渇望の類だ。
 そういう準備のない人が恵みに預かるとは、個人的には思えない。
 ともしびのたとえ(マタイ25:1-13)も同じである。油を準備しない人は、恵みに預かれなかった。
 このギリシヤ人は、もともと恵みに預かる立場にはなかったにもかかわらず、準備あって、イエスの恵みに預かっている。

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