自分の十字架

 「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」(マルコ8:34-37)

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 私たちは、神の律法の御前に罪人である。
 どの程度罪が重いかというと、極刑の十字架にはりつけにされてしまう程なのだ。
 私たちはいつも、この重い十字架を背負い続けている。
 ところが、ほとんどの人は、そのこと自体に全く気付いていない。
 「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」というのは、自分が神の御前にそれほどの重罪人なのであるということに気付き、それで救い主イエスにすがりつくしかない、ということである。
 「さあ、イエスについてゆこう」とかいうものではない。

 イエスにすがった者は、ゴルゴダの丘でのイエス同様、死ぬ。
 そして、やはりイエス同様、よみがえる。
 死んでよみがえって、罪赦され、「いのち」に預かる。
 「いのちを失う者はそれを救う」のである。自分を捨てて初めて、自分が生きる。

 この「いのち」がなくては、見えない十字架の重みをこらえて全世界を手に入れたとしても、そんなものは天の御国ということについて全くの無価値だ。
 そして、この「いのち」は、売買できる類のものではない。流通していてお金でやりとりできるものではない。
 十字架に死ぬのは、イエスにすがった者の多くに働く神の恵み、また、そこから復活するのもまた、神の恵みによるのである。

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[付記]
 ほんじつの記事は、2008年12月24日付の記事を参考にしました。

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