律法の大切さと身代わりの十字架

 「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:28-31)

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 一番大切な律法について。

 ここでイエスが挙げた「主を愛せよ」、「隣人を愛せよ」は、十戒そのものではない。
 だが、十戒をきちんと含んでいる。完全に包含している。
 例えば「殺すな」は「隣人を愛せよ」、偶像礼拝禁止は「主を愛せよ」に、それぞれ含まれている。
 上の2つの律法は、数ある律法群のエッセンスとも言えよう。

 だから、イエスが挙げたこの2つの律法を、「いのち」を得るために、とことん行なってみるといい。いわば、行ないによる義である。
 できないということを、遅かれ早かれ悟ると思う。
 義人はひとりもいないのである(ローマ3:10)。
 律法を守ることができないということは、つまるところ、神の御前に罪人なのであり、律法に死んだのである。
 アダムの肉を持つ罪深い私たちは、律法によってはじめてその罪深さを悟る。(だからこそ、神の律法が大切なのである。)

 イエスが受肉して来られたのは、その罪人を救うためであり、ご自身の肉に罪を犯していないにも拘わらず極刑の十字架に死んで、私たちの身代わりに処分された。
 そして、その身代わりの死は承認されて復活し、私たちが罪人でありながら罪赦されるという道が切り開かれた。
 律法に死んだ私たちは、恵みによってイエス同様よみがえり、欲しかったものである「いのち」を、ここでいただけることとなる。
 それは、恵みによる義なのである。

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