実を結ぶということ

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:1-4)

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 実を結ぶということについて。

 剪定をするのは御父であるから、実を結ぶかどうか、さらに、そもそも実とは何かということの判断の主体は、すべて御父の側にある。
 御父が全てを判断するのである。人ではない。
 そうすると、たとえば他人によく見られたくて行う善行の類は、人にはほめられても御父にとってはどうなのであろうか。
 イエスもこう言っている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:3-4)。

 では、実を結ぶとはいったい何のことであろうか。
 それは、私たちが死んでよみがえり、御父と和解することである。
 イエスがそのことの型を、これから自ら示す。
 このイエスにとどまることが、私たちが救われるための唯一の手段であることを明らかにするためである。

 御父は、この世での手下が欲しいのではない。
 一人でも多く、お救いになりたいのである。

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