イエスの声が聞こえるか

 「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:24-27)

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 イエスは、この人たちを糾弾しているわけではない。
 単に、この人たちは「わたしの羊に属していないから」イエスを信じることはないと言っている。
 では、このころすでにイエスを信じていた人がいただろうか。
 いない。
 弟子たちも当時は、信じてなどいない。
 しるしなどの外的なものから判断することは、「信じる」という営みとは全く異なる。
 「判断する」と「信じる」とでは、まるで違う。

 「信じる」とは、信じさせられることである。
 イエスの声が聞こえるかどうか、それがすべてであり、復活のイエスとの出会いがあったかどうかがすべてである。
 そのとき、私たちは内側から変えられる。瞬時にして変えられる。変わるのではない。
 判断という頭の過程が入り込む余地もない。
 外側に変化はないが、内側に「いのち」が宿る。これが信心である。
 そして、大牧者イエスの声にしたがってついてゆく。

 このイエスの羊に誰が属しているのかは、御父と御子以外、誰にもわからない。
 だから、誰をもみくびるべきではない。
 救いとはきわめて個人的なものであるから、他人が救われるかどうか、あるいはこいつは救われないだろうというのは、きわめておかどちがいである。
 もっぱら自分の救いを望む必要があるし、第一、自分が神の地点に立ったかのように人を裁いており有益なことが何一つない。

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[一版]2014年 8月10日
[二版]2017年 5月14日(本日)

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