『罪人』

 「こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
・・・
 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
・・・
 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:15-16,24,33-34)

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 イエスによって目が見えるようになった人とパリサイ人との問答、その抜粋。
 「罪人」という言葉について、パリサイ人がどのように用いているかを見てみよう。
     ・安息日を守っていないゆえに罪人だ
     →私たちは彼が罪人であると知っている(根拠なし)
     →元盲人を罪人扱い(罵詈雑言)。

 このようにして見ると、彼らはもっぱら他人を貶めるために「罪人」という言葉を用いているということが明らかだ。
 ちなみに、その安息日にはパリサイ人たちも集ってあれこれやっているのだから、同じ基準を当てはめるならば彼ら自身も罪人のはずだ。

 しかし、罪とは何か、ここで今一度確認すると、神の律法に違反すること、これが罪である。
 だから、神と人との関係性の中でのみ、罪が認識される。
 これを言い換えると、神を敬う個々人の、もっぱら内面の問題に帰する。
 そして私たちは、安息日ひとつ守ることができない。
 自分は昨日、腹が減ったので麻婆豆腐など作ってしまった。大罪だ。
 豆腐、豚ひき肉、ねぎを買うためにスーパーに行ったが、二重に大罪だ。
 ふざけて言っているのではない。イエスの山上の説教での厳格な律法解釈を当てはめるなら、これらの行為を行う自分は罪人以外の何者でもない。
 このようにして、罪は私を死へと追い込んでゆく。このことは、十字架に死にイエスによって復活するために、不可欠な段階なのである。

 自分が罪人であることは、もっぱら神と自分との関係性においてのことなので、スーパーで買い物をしている他人に向かって「罪を悔い改めよ!」などとはとても言えない。
 だが、上でパリサイ人がやっていることというのは、正にこれなのである。
 しかも、なまじ権力をもっているのだから、従わないと厄介だ。
 「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」、こういう科白を何の疑問もなく他人様に言い放てるのなら、さぞ気分いいだろうと思う。
 そして、彼らは、自分こそが罪人であるという気づきから更に離れてゆくのである。

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