イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
偽り者
「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)
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「この方」とは御父のこと。
イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば自分は「偽り者」となる、あなた方同様に、そう言っている。
自分が偽り者だという気付き。
自分が殺す者だという気付き、等々。
律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは例えようのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
それはただ、恵みによる。
修行とか断食とか滝に打たれるとか、そのような自力ではどうにもならない。
偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者だと知ることが必要となる。
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[一版]2011年 1月23日
[二版]2014年 8月 4日
[三版]2017年 5月 3日(本日)
よろしければクリック下さい。
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「この方」とは御父のこと。
イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば自分は「偽り者」となる、あなた方同様に、そう言っている。
自分が偽り者だという気付き。
自分が殺す者だという気付き、等々。
律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは例えようのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
それはただ、恵みによる。
修行とか断食とか滝に打たれるとか、そのような自力ではどうにもならない。
偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者だと知ることが必要となる。
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