偽り者

 「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)

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 「この方」とは御父のこと。
 イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば自分は「偽り者」となる、あなた方同様に、そう言っている。

 自分が偽り者だという気付き。
 自分が殺す者だという気付き、等々。
 律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは例えようのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
 それはただ、恵みによる。
 修行とか断食とか滝に打たれるとか、そのような自力ではどうにもならない。

 偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
 殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
 偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
 そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者だと知ることが必要となる。

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