誰が父か

 「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」(ヨハネ8:37-39)

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 私たちの「父」は、誰であろうか。
 御父であろうか、アブラハムであろうか、それとも他の誰かであろうか。

 御父を父とする人は、「わたしのことばが、あなたがたのうちにはいって」いる。
 よく暗唱聖句ということをやるが、たとえ聖書の全てをそらんじたとしても、それはイエスのことばがうちに入ったことにはならない。
 あるとき、ある聖句が自分のうちに入ってくる。
 脳に刷り込むのではなく、うちに入ってくる。
 そのことばが聖書を開く鍵となる。
 イエスが救い主とはっきり分かり、このイエスを介して神と和解する。

 そうでないうちは、自分の父はアブラハム(または他の誰か)である。
 「私たちの父はアブラハムです。」というのは、自分は律法を守っている者です、ということで、イエスも「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」と言う。
 つまり、アブラハム(律法)の行ないを突き詰めようとしない限り、自分の罪、それも極刑に値する自分の罪が律法に照らして明らかにされない。
 アブラハムは罪を明らかにし、その罪ゆえに子を殺す。極悪人としてあなたを極刑に処す導きをする。
 アブラハムが殺し、そしてキリストがよみがえらせる。
 イエスのよみがえりは、「わたしのことば」によってである。

 だから、父が誰かは恵みによって変わるのである。

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