村八分

 「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。」(ヨハネ9:22-23)

---

 「その者を会堂から追放すると決めていた」。

 「会堂」とはシナゴーグのことなのだが、ここではコミュニティー位の広い意味。
 そうすると、「会堂から追放する」ということはコミュニティーからの追放、つまり村八分にするということ。

 では、誰を村八分にするのかというと、「イエスをキリストであると告白する者」である。
 キリスト・イエスが自分を救ってくださったということで村八分に遭う。
 キリストによって救われた人は原理や法則が違ってしまうので、おのずと排斥されて村八分にならざるを得ない。
 「彼の両親」は、この村八分を恐れている。イエスを知らないのだから、当然だろう。

 だが、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:11-12)
 この世では狭き道を歩んでも(マタイ7:13)、その狭さを感じるほどかえって救いの確信が強くなる。

---

[付記]
 本日の記事は、2009年2月21日付記事に筆を加えたものです。

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )