これはひどいことばだ

 「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:60-63)

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 私もかつて、イエスのことばを「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と思っていた時期が長かった。そして、そんなふうに思ってはならない、などと悩ましく思っていた。

 イエスのことばは、ことばのようでことばではない。
 ことばのようで霊(すなわち神)なのである。
 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)、この意味でのことばなのだ。

 聖書を字面で読む限りは、ただのことばの連なりにしか見えないので、「だれが聞いておられようか。」となる。
 ところが、恵みによって聖書のことばが霊として入ってきたときに、ことばは生きて私たちの内に入り、それが「いのち」を与える。
 そのとき、私たちはイエスと出会う。
 このとき私たちとイエスとを結んでいるのは、内に入ってきた聖書のことばである。
 ことばではないことばに接して、「これはひどいことばだ。」とは最早全く思わなくなる。

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