神を喜ばせる、ということ

 「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
 肉にある者は神を喜ばせることができません。
 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:7-9)

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 アダムはかつて、神に反抗した。
 それゆえ、このアダムの肉の性質として、神への反抗また律法への不服従がある。
 このことは、罪性、原罪、ことばはどれでもよいが、人間は生まれながらにそういった肉を持っている。
 この肉は、神を喜ばせようと律法を守ろうとしても、どうしても遵守することができない。

 しかし今は、キリストの死と復活がなされた時代にある。
 このキリストを信じる人は、肉にはなく、いのちのうちにある。
 その信仰が神を喜ばせるので、神の秩序である律法を遵守することになる。
 その人の肉は、既にキリストの十字架に共につけられたのである。

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