イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
カレンダー
2008年10月 | ||||||||
![]() |
||||||||
![]() |
||||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
![]() |
||||||||
1 | 2 | 3 | 4 | |||||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | ||
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | ||
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | ||
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | |||
![]() |
||||||||
![]() |
||||||||
![]() |
||||||||
|
goo ブログ
過去の記事
カテゴリ
最新の投稿
イエスは律法を成就するために来られた |
塩気をなくした塩は塩気をつけてもらえる |
義への飢え乾き |
おのれの心に地獄を見出す者は幸いである |
ペテロはなぜイエスに声を掛けられたのか ペテロはなぜすぐ従ったのか |
この世をくれると言われてもイエスはさっぱり興味がない |
み言葉は悪魔も使う -道具としてのみ言葉 |
パンだけで生きることができるか |
受洗するイエス |
みことばは「いのち」の触媒 |
最新のコメント
サトシ/キリストの道筋 |
サトシ/罪深い肉と同じような形 |
サトシ/ひとりの人の不従順、ひとりの人の従順 |
Levi/神との平和 |
ネコ/神との平和 |
Levi/新しい約束 |
み/新しい約束 |
Levi/隠された宝 |
ABE/隠された宝 |
Levi/小さき門 |
最新のトラックバック
ブックマーク
プロフィール
goo ID | |
levi9183 | |
性別 | |
都道府県 | |
自己紹介 | |
連絡先:crlh[]goo.jp
返信は気長にお待ち下さい。 |
検索
gooおすすめリンク
![]() |
URLをメールで送信する |
(for PC & MOBILE) |
![]() |
![]() |
罪のゆえに死んでいても
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:10)
---
アダムの肉を持つこの体は、罪のゆえに死んでいる。
罪ゆえの死、というのは、この身が神の律法をけっして遵守できないからである。
それゆえ私たちは神とは対極の位置にあって、さばかれて万死に値する存在なのである。
しかし、この神が遣わした御子イエスが極刑に死に、そして復活してくださった。
このキリストを信じる者は、体が死んでいてもその信仰が義と認められて、いのちのうちに生かされるようになる。
この信仰は、キリストの歩まれた十字架の道のりと全く同じところを通る。
---
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
---
アダムの肉を持つこの体は、罪のゆえに死んでいる。
罪ゆえの死、というのは、この身が神の律法をけっして遵守できないからである。
それゆえ私たちは神とは対極の位置にあって、さばかれて万死に値する存在なのである。
しかし、この神が遣わした御子イエスが極刑に死に、そして復活してくださった。
このキリストを信じる者は、体が死んでいてもその信仰が義と認められて、いのちのうちに生かされるようになる。
この信仰は、キリストの歩まれた十字架の道のりと全く同じところを通る。
---
よろしければクリック下さい。
![にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ](http://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian80_15.gif)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )