しとしとと粒の細かな雨が降っています。地震の被災地には涙雨。復旧が進むことを祈るばかりです。
東京をさまようように歩いていると、どうやってこんなに大きなまちができたのか、と疑問に思います。東京にばかり人がいて、地方部はどんどん過疎になるのはなぜか。
そもそも「町」とはなにか?こういう疑問を持ったときはまずは本を読むのが一番です。
新宿には大きな本屋さんがたくさんありますが、最近のお気に入りはジュンク堂書店。とにかく大きくて、本の種類が多いのはうれしいものです。しかし最近の私は、本がいかに多くあっても、そのなかから「これを読むべし」という一冊に出会えるようになりました。
そうして町とは何かという疑問に答えてくれそうだったのが宮本常一さんの「町のなりたち(日本民衆史5)」(宮本常一著 未来社)でした。
「元来日本は町のない国であった」とこの本は始まります。日本という国を概観すると、律令国家が成立する以前に都市らしいものは発掘されておらず、同じ時代のヨーロッパやオリエントが都市址からなっていることからして、全く違った世界であったことでしょう。
そして日本に町が発達しなかったのは、稲作による村づくりから始まったためで、西洋のそれが交易を中心として都市が発達したのとは様相がことなるのだ、と著者は言います。
それでいて、日本の稲作農業は食料生産の農民の経営規模が小さかったために、食料生産以外の生産は、食料生産の余力でしか行われませんでした。
そのために、織物や農機具などの生産を行う大規模な集団組織が発達しませんでした。
農業も、地域の土豪によって支配されることがあったとしてもそれは一種の管理であって、企業的な経営といえるものではなかったのです。
農業経営の規模が小さく、しかも領主からの搾取がはなはだしいために、農民に蓄積が発生して拡大再生産にいたることもないという状態がおそらく12世紀の終わりまで続いたのだろうといいます。
シナからの貨幣が流入され始めるのは鎌倉時代のことですが、それにしても日本の中には明治のはじめまで都市という概念がなかったのではなかろうか、と著者は言います。
商工的な技術や生産技術は大陸からの渡来人たちとともに伝来をしましたが、それだけでは地方に都市的な商工社会を形成するまでに至りませんでした。
古代に建設されて今日まで残る町はおそらく京都だけでしょう。しかしそれも町という概念ではなかったのです。
※ ※ ※ ※
そのうちに生産したものと欲しいものを交換する場としての「市」が登場します。しかしこれも、何もないところに日を決めて突然に小屋が建ち物が並べられ、一日か二日経つと全く何もなくなるという姿が多く、そんな姿はつい近世まで見られた姿なのだそうです。
今度は物流が盛んになってきます。海で船が泊まれる場所は広ければ問(とい)と呼ばれた荷物の取り扱いを行う者が現れ、物資の集散地と私費とが集まり始めます。女郎屋や宿もできてきます。
物流と貨幣経済が盛んになってこそ自然的に人が集まってきたのが町ということのようです。
※ ※ ※ ※
こうして著者は、城下町、門前町、宿場、市民的都市(商人町)、港町、在郷町、商業農家集落、漁業集落、などを非農業的な集落として抽出して、その歴史を縦横に語ってくれています。
このような町がそれほど発達しない状況が長く続いたのは一つには鎖国のせいでした。また工芸工業活動も、農村の余剰労力による人力に頼ったために工場製工業までの発達が見られませんでした。それだけの力が都市自体の中になかったからでした。
農村から切り離された都市はなく、都市が都市として発達をするのは開国からのことでした。明治期以降にようやく都市らしい姿が出始めて、いまになってやっと都市というものが我々の中に、農業から切り離されてきたのだと言います。
日本人が農業から切り離されていない一つの事例として、耕地を持っていれば必ず農家として登録されることを上げています。農業の専業の他に、主たる収入が農業である者を一種兼業農家と言います。
そして農業以外の収入が多い耕地持ちを二種兼業農家と呼んでいます。主たる仕事は農業ではないのに農家として登録されているのです。これが日本人が農業の中に生きている一つの伝統なのだ、と著者は言います。
さて、そうして貨幣による交換性が盛んになり、同時に世界を舞台とした流通が現実のものとなってやっと生産から交易を主体とする、農業という生産から切り離された町が発達をしてきたと言えそうです。
都市に人がいることが経済を生み出す時代になりました。
日本という国の町の成り立ちを改めて考えることで農村と都市との関係を見つめることができました。
日本はほんの少し前まで、本当に農業の国だったということがよく分かりました。
東京をさまようように歩いていると、どうやってこんなに大きなまちができたのか、と疑問に思います。東京にばかり人がいて、地方部はどんどん過疎になるのはなぜか。
そもそも「町」とはなにか?こういう疑問を持ったときはまずは本を読むのが一番です。
新宿には大きな本屋さんがたくさんありますが、最近のお気に入りはジュンク堂書店。とにかく大きくて、本の種類が多いのはうれしいものです。しかし最近の私は、本がいかに多くあっても、そのなかから「これを読むべし」という一冊に出会えるようになりました。
そうして町とは何かという疑問に答えてくれそうだったのが宮本常一さんの「町のなりたち(日本民衆史5)」(宮本常一著 未来社)でした。
「元来日本は町のない国であった」とこの本は始まります。日本という国を概観すると、律令国家が成立する以前に都市らしいものは発掘されておらず、同じ時代のヨーロッパやオリエントが都市址からなっていることからして、全く違った世界であったことでしょう。
そして日本に町が発達しなかったのは、稲作による村づくりから始まったためで、西洋のそれが交易を中心として都市が発達したのとは様相がことなるのだ、と著者は言います。
それでいて、日本の稲作農業は食料生産の農民の経営規模が小さかったために、食料生産以外の生産は、食料生産の余力でしか行われませんでした。
そのために、織物や農機具などの生産を行う大規模な集団組織が発達しませんでした。
農業も、地域の土豪によって支配されることがあったとしてもそれは一種の管理であって、企業的な経営といえるものではなかったのです。
農業経営の規模が小さく、しかも領主からの搾取がはなはだしいために、農民に蓄積が発生して拡大再生産にいたることもないという状態がおそらく12世紀の終わりまで続いたのだろうといいます。
シナからの貨幣が流入され始めるのは鎌倉時代のことですが、それにしても日本の中には明治のはじめまで都市という概念がなかったのではなかろうか、と著者は言います。
商工的な技術や生産技術は大陸からの渡来人たちとともに伝来をしましたが、それだけでは地方に都市的な商工社会を形成するまでに至りませんでした。
古代に建設されて今日まで残る町はおそらく京都だけでしょう。しかしそれも町という概念ではなかったのです。
※ ※ ※ ※
そのうちに生産したものと欲しいものを交換する場としての「市」が登場します。しかしこれも、何もないところに日を決めて突然に小屋が建ち物が並べられ、一日か二日経つと全く何もなくなるという姿が多く、そんな姿はつい近世まで見られた姿なのだそうです。
今度は物流が盛んになってきます。海で船が泊まれる場所は広ければ問(とい)と呼ばれた荷物の取り扱いを行う者が現れ、物資の集散地と私費とが集まり始めます。女郎屋や宿もできてきます。
物流と貨幣経済が盛んになってこそ自然的に人が集まってきたのが町ということのようです。
※ ※ ※ ※
こうして著者は、城下町、門前町、宿場、市民的都市(商人町)、港町、在郷町、商業農家集落、漁業集落、などを非農業的な集落として抽出して、その歴史を縦横に語ってくれています。
このような町がそれほど発達しない状況が長く続いたのは一つには鎖国のせいでした。また工芸工業活動も、農村の余剰労力による人力に頼ったために工場製工業までの発達が見られませんでした。それだけの力が都市自体の中になかったからでした。
農村から切り離された都市はなく、都市が都市として発達をするのは開国からのことでした。明治期以降にようやく都市らしい姿が出始めて、いまになってやっと都市というものが我々の中に、農業から切り離されてきたのだと言います。
日本人が農業から切り離されていない一つの事例として、耕地を持っていれば必ず農家として登録されることを上げています。農業の専業の他に、主たる収入が農業である者を一種兼業農家と言います。
そして農業以外の収入が多い耕地持ちを二種兼業農家と呼んでいます。主たる仕事は農業ではないのに農家として登録されているのです。これが日本人が農業の中に生きている一つの伝統なのだ、と著者は言います。
さて、そうして貨幣による交換性が盛んになり、同時に世界を舞台とした流通が現実のものとなってやっと生産から交易を主体とする、農業という生産から切り離された町が発達をしてきたと言えそうです。
都市に人がいることが経済を生み出す時代になりました。
日本という国の町の成り立ちを改めて考えることで農村と都市との関係を見つめることができました。
日本はほんの少し前まで、本当に農業の国だったということがよく分かりました。
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