今日は七草。朝11時くらいは青空が見えたので薄着で車に乗って床屋さんに行ったのだが、急に雪が降り出して終わって出てくる1時間の間に10センチもの雪が降る状態。
まだまだ雪が降りそうで気が許せません。
今日は
■宮本常一著「炉辺夜話」を読む です。
【宮本常一著「炉辺夜話」を読む】
宮本常一は1907年山口県周防大島生まれで1981年没。「旅する民俗学の巨人」と言われ、戦前から戦後にかけて日本中を旅して歩き、いまだに残されていた様々な事柄から日本の成り立ちを考えてきた民俗学者である。
この本は宮本先生が全国各地での講演録を元にしたもので、それだけに語りかけるような口調で分かりやすく日本の暮らしという民俗学について述べられているものである。
「生活の伝統」という章がある。
「普通伝統と申しますと、古いことになじんで、そうして古いことを大事にしていくのが伝統だとお考えになっておられる方が多いのではないかと思いますが、伝統とはそういうものではなくて、自分の生活をどのように守り、それを発展させていくか、いったか、その人間的なエネルギーを指しているものであるだろうと思うのです」で始まる一節では、古いものを大事にすることが伝統だ、という考え方を廃して、「いやいや変えて良いのだ、変えようとする努力の痕跡が伝統なのだよ」と語りかけてくれる。
菅江真澄(すがえますみ)という三河の国の人が紹介されている。採薬方という薬を求めて山野を歩く役を仰せつかっていたのだが、そのために三河の国から北へ北へと旅を続け、ちょうど天明の飢饉の頃に青森県あたりをつぶさに歩き克明な日記を残しているのである。
菅江真澄は北海道にも渡っていて、北海道にも縁の旅人である。
津軽平野へ入る時には足の踏み場もないほど白骨があった、という悲惨な中を通り抜けての旅である。
この日記の中には、南の人が北の人達の暮らしをどう見たかが克明に書かれているのだが、青森の人達が時代遅れであるということはどこにも書かれていないという。
宮本先生が講演のために各地を訪れる際には、現地で出迎えに出る人が「遠いところまでよくお越し下さいました」というのはまだマシで、「本当に辺鄙(へんぴ)な僻地でございまして…」というのは嫌なことだと言っている。
「なぜお互いが、地域社会に住むものが、それほど卑屈でならなければならないのかということでございます。今から百八十年前(講演当時)に菅江真澄を迎え入れた津軽の人達はそういう卑屈さは持っていないのです…。その時期には皆さん方はそれぞれ誇りを持っていた。その土地を良くするための努力をなさっていたのです」
宮本先生は、日本の文化の発達の大事な梃子は、文化が交流しあってその文化を受け入れる素地を持っているかどうかということでそれが進歩する社会か停滞する社会かの境目になっていたのだ、と言う。
三味線や津軽あいやという三味線唄も元は、鹿児島から天草にかけての「はいや」であり、さらにその起源は南の風の南風(はえ)であり、沖縄の「えいさあ」だろうという。
「えいさあ」が「はいや節」になり、それが日本海を伝わって津軽じょんがらになっている、それは地方が外からの文化を受け入れて発達させる素地を持っていたということなのだ。
決して自分たちのところで起こったものではない。しかしそれを卑屈な気持ちで受け入れたものではなくて、あくまでも対等なものとして、しかもそれが自分たちの生活を豊かにするものだとして受け入れたからこそ発達をしてきたものであるということなのだ。
「これから先はもう泣き言は言わないことにしようではありませんか。青森はとにかく僻地でございます、というようなことは一切言わない。『随所に主となればたちどころに真となる』という言葉があります。…この言葉がやがて本当の地域社会というものを立派にしていくもとになるもでなはないかと考えます。それを希望してやみません」
これが1978年当時の宮本先生の青森での講演録である。北海道も同じ事だ。
「随所に主となる」か。榛村さんのネタ本がまた一つ明らかになった思いである。
まだまだ雪が降りそうで気が許せません。
今日は
■宮本常一著「炉辺夜話」を読む です。
【宮本常一著「炉辺夜話」を読む】
宮本常一は1907年山口県周防大島生まれで1981年没。「旅する民俗学の巨人」と言われ、戦前から戦後にかけて日本中を旅して歩き、いまだに残されていた様々な事柄から日本の成り立ちを考えてきた民俗学者である。
この本は宮本先生が全国各地での講演録を元にしたもので、それだけに語りかけるような口調で分かりやすく日本の暮らしという民俗学について述べられているものである。
「生活の伝統」という章がある。
「普通伝統と申しますと、古いことになじんで、そうして古いことを大事にしていくのが伝統だとお考えになっておられる方が多いのではないかと思いますが、伝統とはそういうものではなくて、自分の生活をどのように守り、それを発展させていくか、いったか、その人間的なエネルギーを指しているものであるだろうと思うのです」で始まる一節では、古いものを大事にすることが伝統だ、という考え方を廃して、「いやいや変えて良いのだ、変えようとする努力の痕跡が伝統なのだよ」と語りかけてくれる。
菅江真澄(すがえますみ)という三河の国の人が紹介されている。採薬方という薬を求めて山野を歩く役を仰せつかっていたのだが、そのために三河の国から北へ北へと旅を続け、ちょうど天明の飢饉の頃に青森県あたりをつぶさに歩き克明な日記を残しているのである。
菅江真澄は北海道にも渡っていて、北海道にも縁の旅人である。
津軽平野へ入る時には足の踏み場もないほど白骨があった、という悲惨な中を通り抜けての旅である。
この日記の中には、南の人が北の人達の暮らしをどう見たかが克明に書かれているのだが、青森の人達が時代遅れであるということはどこにも書かれていないという。
宮本先生が講演のために各地を訪れる際には、現地で出迎えに出る人が「遠いところまでよくお越し下さいました」というのはまだマシで、「本当に辺鄙(へんぴ)な僻地でございまして…」というのは嫌なことだと言っている。
「なぜお互いが、地域社会に住むものが、それほど卑屈でならなければならないのかということでございます。今から百八十年前(講演当時)に菅江真澄を迎え入れた津軽の人達はそういう卑屈さは持っていないのです…。その時期には皆さん方はそれぞれ誇りを持っていた。その土地を良くするための努力をなさっていたのです」
宮本先生は、日本の文化の発達の大事な梃子は、文化が交流しあってその文化を受け入れる素地を持っているかどうかということでそれが進歩する社会か停滞する社会かの境目になっていたのだ、と言う。
三味線や津軽あいやという三味線唄も元は、鹿児島から天草にかけての「はいや」であり、さらにその起源は南の風の南風(はえ)であり、沖縄の「えいさあ」だろうという。
「えいさあ」が「はいや節」になり、それが日本海を伝わって津軽じょんがらになっている、それは地方が外からの文化を受け入れて発達させる素地を持っていたということなのだ。
決して自分たちのところで起こったものではない。しかしそれを卑屈な気持ちで受け入れたものではなくて、あくまでも対等なものとして、しかもそれが自分たちの生活を豊かにするものだとして受け入れたからこそ発達をしてきたものであるということなのだ。
「これから先はもう泣き言は言わないことにしようではありませんか。青森はとにかく僻地でございます、というようなことは一切言わない。『随所に主となればたちどころに真となる』という言葉があります。…この言葉がやがて本当の地域社会というものを立派にしていくもとになるもでなはないかと考えます。それを希望してやみません」
これが1978年当時の宮本先生の青森での講演録である。北海道も同じ事だ。
「随所に主となる」か。榛村さんのネタ本がまた一つ明らかになった思いである。
勉強しなくては。