北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

喫茶去(きっさこ)

2020-05-12 23:57:05 | フライフィッシング

 

 今年も新茶の季節となりました。

 掛川在住の知人から新茶が届いてお礼の電話をしたところです。

 掛川のお茶にもいろいろありますが、東山のお茶と言うところが素晴らしい。

「ご無沙汰してます、いつもお気遣いありがとうございます」
「いやいや、季節のものですから」

 送ってくださった方は掛川でご商売をされている方ですが、コロナが真っ盛りの頃はさすがに客足が遠のいたものの今ではお客さんが戻ってきているとのこと。

 患者発生数が少数にとどまっていることは幸いです。気を緩めずにウィルスとの共生に近づけて欲しいものです。


     ◆


 私が掛川で仕えた榛村純一市長さん(当時)は掛川特産の「茶」というものを、単にお金になる地域産物として売り込むだけではなく、文化や歴史、哲学の角度からみていて、「茶は良いものだ」ということを諄々と説いてくれたものでした。

 そんなお茶をめぐる話の中でときどき出てきたのが「喫茶去(きっさこ)」という言葉。

 「去」は日本語では「去る」ですが、ここではあまり意味はないらしく、「まあお茶でもどうぞ」という程度の意味のようです。

 ただそれを使うシーンが面白い。

 中国の昔、ある僧が新しく禅の修行に来た僧に「前にここに来たことはありますか」と問い、「はい、あります」と言えば、「喫茶去(=ではおちゃでもどうぞ)」と言い、相手が「いいえ、初めてです」と言っても「喫茶去」と言ったのだと。

 それを見た寺の院主が二人に同じ答えをしたことを問うと、その僧は「院主さん」と呼びかけました。

 院主が「はい」と言うと、僧はすかさず「喫茶去、まあお茶でもどうぞ」と言ったとのこと。


 禅のお話なので、この逸話から何を読み解くかにはいろいろな考え方がありますが、まあ「どんな相手でも話は『お茶をどうぞ』から始まる」、ただそれだけのことのようであります。

 コロナが大変、自粛でイライラ、そんなときこそ「喫茶去」。

 まあお茶でもどうぞ。

 コロナの今、お茶は心に沁みるのです。

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