
今日は地元阿寒農協の創立五十周年記念式典に参加しました。
祝辞を述べるために阿寒町史を紐解いてみたのですが、当然ながら入植してきた先人たちの苦労は筆舌に尽くしがたいものがあります。
この地域一帯に入植がはじまったのは明治30年代頃のこと。この土地には愛知県、富山県、新潟県、徳島県、静岡県、さらには道内の他地域からの入植も数多かったらしい。
しかしながら、自然環境が厳しい土地柄でまずは木を切り開墾して作物を植えると言ってもその現状は苦しく、脱落して離農する人たちも多いものでした。
地域の農業は最初はイナキビやジャガイモ、トウモロコシなど自分達が食べるものを作るのが精一杯のところから始まり、やがて大豆や小豆などの商品作物が作れるようになり、酪農が始まってからは飼料用の作物が作られるようになりました。
戦時中は馬産地として名を馳せ、これもまたある時期地域を潤した農業経営の源となりましたが、敗戦と同時にそうした需要も減り、農業構造の転換を余儀なくされました。
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しかもこの間、幾度となく冷害と凶作に泣かされましたが、逆にこれらをもたらす構造的弱点を克服するために、共同購入や共同農事計画のための組合確立、そして乳牛の経営による酪農経営という策を見出し、これが現在の農業協同組合組織や現在の酪農王国に繋がっているのです。
今年前半の酪農経営は、北関東から東北にかけての酪農が大震災や放射能の影響で被害を受けており、供給が不足気味であるために北海道への期待が高まっていると言います。
ただし、生き物の乳牛は工場生産とは異なり、稼働時間を増やせば増産ができるという代物ではありません。牛乳の需要が減った時に牛を減らせば、これまた短時間で生産力は回復しません。
また昨年は猛暑だったために、牛の妊娠の時期がずれてしまい、まだ子牛を生んでいないために乳の出ない乳牛が多く、生乳の集荷量が不足気味なのだそう。
こうした生産力が回復しない中で生乳が飲用に回されると、今度はバターやチーズなどの加工製品に回る分が少なくなってしまいます。
あくまでも需要と供給のバランスの中で生きる酪農経営は、突然の変化に追随するのが難しい産業でもあります。
生産量、価格、高品質化、高付加価値化、TPPやEPAなどの貿易政策…。農業の課題はまだまだ山積していますが、まずは牛乳を飲もう!
今日の祝賀会では乾杯も牛乳でした(笑)。
