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北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

続・ペダルがない ~ これも運命なのだ

2011-06-04 23:45:48 | Weblog
 ペダルを持ってきていないことに気がついて落胆したのは昨日のこと。

「ペダルが~」とネット上で愚痴ってみたところ、フェイスブックの友人から「それだったら釧路市内のPAZか、釧路町のスポーツ・デポにあると思いますよ」という嬉しいアドバイスがありました。

 以前からいつかビンディングペダルに替えたいと思っていたこともあって、早速紹介されたショップのPAZさんへ行ってみました。

 こちらは住まいの半地下をそのままショップにしたようなところですが、お奨めのフレームのほかにも細々したパーツなどが結構おいてありました。

 まずはビンディングでも普通の靴でも使えるペダルを買って目標達成。そのうえでマスターと釧路市内のサイクリストの現状についていろいろと話を聞かせていただきました。


   【ビンディングでも普通の靴でも大丈夫】


 なかでも、こちらのショップでサイクリングツアーを年に何回か企画しているとのことだったので、早速情報を届けてもらえるようになりました。

 マスターはフェイスブックもやられているというので早速お友達になり、これでいろいろと連絡が取りやすくなったというわけ。


    ※     ※     ※     ※     ※


 ペダルがあったならこういう展開にならなかったでしょうから、これもまた釧路での必然的な運命だったのかもしれない、と思うようにしました。物事は前向きに解釈しなくてはね。

 家でペダルを取り付けて組み立ててから、スポーツ・デポさんも見に行きましたが、ビンディングをつけられる靴があったのでこちらで靴を購入。段々自転車用の装備が充実してきました。

 私の自転車は掛川の友人たちからのプレゼントのエディ・メルクスというモデル。これで東京をひた走ったもはや相棒です。

 嬉しくなって買い物に走ってみましたが、ママチャリとはやはり走りの次元が違います。同じところまで走ったとしても、所要時間と疲れは半分ほどです。

 
 問題は自転車を保管しておく場所がないことですが、こればかりは毎度毎度、4階にある自分の部屋まで持ち上げるしかありません。まあ軽いからよいのですが、ね。

 あとは週末が晴れることを祈るばかりです。

 そろそろマップ作りに取り掛からなくては。


   【メルクスモデルはもはや相棒】
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江戸時代の政権交代

2011-06-04 16:12:00 | Weblog
 民主党の「言った、言ってない」、「ペテン師だ、いや書いてある通りだ」という、政権最上階でのやりとり。なんだか子供の喧嘩みたいです。

 子供の喧嘩と笑っていられないのは、ここに日本の命運がかかっているからで、まあ早く一定の方向が出ることを祈っています。

 それと同時に、確信を持った最高権力者を引き摺り下ろすというのはやはり相当に難しいことなのだ、と改めてよくわかりました。

 なにしろ国会には『同一会期に同一案件を審議しない「一事不再議」の原則』があるのです。12月まで会期延長すれば内閣不信任案は再提出できないというわけ。

 つまり内閣不信任案は乾坤一擲の大勝負なわけで、それをあやふやな覚書でうやむやにされてしまっては、谷垣さんも鳩山さんも「私は一体何だったのでしょう?」状態に違いありません。

 これに原子力安全委員会の斑目委員長の発言を重ねると、今年の流行語大賞には「私は一体何だったのでしょう?」が必ずノミネートされることでしょう。

    ※     ※     ※     ※     ※

 さて、菅総理の話は置いておいて、武士という機関が発達した鎌倉時代から江戸時代までの間は、立派な主君を家来が補佐するという形で地方分権の先取りのような封建制の地域経営が維持されてきました。

 ところが江戸時代になって徳川幕府が目を光らせるようになってからは、暗愚な主君を戴いていることは幕府にお家取り潰しの口実を与えてしまいかねないために、お家を守ることには必死になりました。

 どうしても主君がダメな場合は「主君押し込め」という形で家来によるクーデターが起こされました。

 そしてこのことは歴史家の笠谷和比古氏がその構造を明らかにしたことで、単純な下剋上のクーデターではないということが知られるようになったのです。





---------------≪ ここから引用 ≫--------------
【Wikipedia 《主君押し込め》より http://bit.ly/ll6sCy 

  (…前略…)

 主君に対する忠誠を絶対とする武家倫理が徐々に確立した江戸時代においては、少なくとも徳川将軍家では見られなくなったものの、非常の措置として行跡の悪い藩主を強制的に監禁する行為は慣行として残った。

 これはお家の存続を大事とするゆえに行われた行為でもある。もし暴政により被害が深刻化した場合、あるいは藩主の不行跡が幕府に発覚した場合は、領地を治める能力が無いとして転封や減封、最悪の場合は改易という処分を受けかねないためである。

 手順は概ね決まっていた。藩主の行跡が悪い場合、家老らによって行いを改めるよう、諫言が行われる。このような諫言は、場合によっては藩主の怒りを買い、手討ちにされかねない危険な行為であったが、家臣としての義務であった。

 諫言が何度か行われ、それでも藩主の行いが改まらない場合、家老ら重臣が集まって協議が行われる。そこで押込もやむを得ずとの結論に至った場合、実行される。

 あらかじめ目付クラス以上のある程度の身分有る者で、腕の立つ者、腕力強健な者を側に控えさせておき、家老一同が藩主の前に並び「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」と藩主に告げ、家臣が藩主の刀を取り上げ、座敷牢のような所へ強制的に監禁してしまう。

 藩主は数ヶ月に渡り監禁され、その間、家老ら重臣と面談を繰り返す。家老ら重臣により、藩主が十分に改心して今後の行いも改まるであろうと判断された場合、藩主は「誓約書」を書いて、元の地位に復帰する。「誓約書」には、行いを改めること、善政を施すこと、押込を行った家臣らに報復を行わないこと等が明記される。

 監禁の後も、藩主に改悛の情が見えず、あるいは偽りの様子としか受け取られない場合、再び悪行や暴政を行う可能性が高いと判断された場合は、藩主は強制的に隠居させられ、藩主隠居の旨幕府に届け出、嫡子や兄弟の妥当な人物が藩主となる。

 1660年(万治3年)の伊達綱宗の押込は幕府の承認と監督のもとで行われた。これは公儀公認の主君押込の嚆矢となる。一方で幕府の内諾を得ない押込が発覚した際は処分されることもあった。

 また、必ずしも押込派に理があるケースだけではなく、単なる権力争いであった場合もある。あるいは水野忠辰や大関増業など、改革をなそうとする藩主が、既得権を維持せんとする重臣から「悪政」を咎められ、押込められる例も少なくなかった。

 一般に名君と評価される上杉鷹山も、一時は改革に反対する老臣から押込を受ける寸前まで追い込まれた事件もある(七家騒動)。

 (以下略)

---------------≪ 引用ここまで ≫--------------


 まあお家騒動ではあるのですが、主君の家を守りたい一心という意味でもあったよう。

 日本という主君を守ってくれるのは一体誰なのか?「菅さん、辞めて」は良いけれど、「代わりにお前がやれ!」という衆目が一致する人がいない中での騒動。

 現代日本では、国民は最後のところで自分たちの望む政治を選ぶことができないようです。
 
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