
鳩山民主党政権が誕生しました。振り返ってみると、この間マスコミの報道姿勢は麻生政権には徹底的に厳しく、それに比べると鳩山政権には変化の先のバラ色の未来があるといった論調に感じたの私だけでしょうか。
いずれにしても、日本国民の支持を得た政権として日本国民の幸せを追求して欲しいものです。
さて、佐々木俊尚著「2011年新聞・テレビ消滅」(文春新書)を読みました。別に『ともだちによる予言の書』というわけではなく、今アメリカで起こっている社会変化がそのまま日本にも訪れるであろうという分析レポートです。
新聞とテレビに代表されるマスメディアの凋落を引き起こすのはいわずと知れたインターネット社会の到来です。このことの構造的変化を著者は①マスメディアの「マス」が消滅し始めていること、②メディアのプラットフォームかが進んでいること、と分析します。
日本国民のほとんどが土曜日の夜八時にテレビの前に座って「八時だよ全員集合」を見て、「志村!後ろ~!」と叫んだ時代はもう来ません。人と同じことをしていないと不安に思う人はいなくなり、逆に人と同じことをしたくない自分だけを志向する人が増えたのです。これが第一の構造変化。
もう一つのメディアのプラットフォーム化については、生産から送り出しまでを独占していた構図が崩れたのだということ。これをグーグルの及川卓也氏は「コンテンツ」「コンテナ」「コンベヤ」という三層に分けて説明しています。
かつては新聞で言えば
コンテンツ=新聞記事
コンテナ=新聞紙面
コンベヤ=販売店 であり、
テレビで言えば
コンテンツ=番組
コンテナ=テレビ
コンベヤ=地上波、衛星放送、CATV といった垂直統合モデルだったものがばらばらに分解されて、水平分散に移行しているのです。
今のインターネットによる変化は新聞であれば
コンテンツ=新聞記事
コンテナ=ヤフーニュース、検索エンジン、誰かのブログ、2チャンネル
コンベヤ=インターネット という風に変えてしまいました。
そしてコンテナとコンベヤを失うことは、広告のパワーとコンテンツの有料課金システムを失うことになりそのパワーはコンテナを握る企業に取られてしまうことを意味しているのです。
この大きな構造変化とその影響について既存のマスコミは気がついていないか、又は気がついていてもなす術がないのだとも。
著者が経験したある勉強会でのこと。著者のこうした見解を90分にわたって述べ、概ね理解が得られたと思ったとき、最後に立ち上がったのが某新聞社の幹部だったそう。その幹部はマイクを握ってこう述べたそうです。
「ネットの時代だろうがそんなことは関係なく、皆さんはどんなニュースを読むべきかというような情報収集能力はもっていなくて、どの情報を読むべきかが判断できないのです。だから我々が皆さんに、どの記事を読むべきかを教えてあげるんです。これこそが新聞の意味です」と。
これをそのとおり、と思うか、時代遅れだと思うかで、あなたの感性が試されます。これをその通りと思う人はもはや少数となっているという事実に気がついていないとすれば、(気がついていても)救いようがないのです。
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【広告媒体としての変化】
ではマス(=大衆)が消滅したとしてそれはどこへ行ったのでしょう。著者はそれを「マスメディアのミドルメディア化」と説明します。マスメディアが数百万人~数千万人に発信される情報ですが、ミドルメディアは特定の企業や業界、特定の分野、特定の趣味のひとたちなど、数千人から数十万人の規模の【特定層】に向けて発信される情報が爆発的に増えました。
かつて紙媒体を輸送していた時代にはこれらをピンポイントで欲しい人に届けるのが難しかったのですが、インターネットの登場はそれを意図も簡単に可能にしました。そしてこのことが広告・宣伝におけるマスメディアのパワーを圧倒的に無力化しつつあるのです。
ブログメディアについても、マスコミの中にはいまだに単なる個人の落書きに過ぎないと思っている人も多いようですが、なかには一日に数万人のアクセスが集中するパワーブロガーも登場しているわけです。
しかし既存マスコミの人たちには、なぜこういう人たちが支持を得ているのかについて想像もできないのかもしれませんが、同じ広告を打つのでも、こうした志向がマッチする人にピンポイントで送ることのほうがばら撒くよりもはるかに効果的であることは言うまでもありません。
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たとえば織り込みチラシ。これがほしくて新聞を取っているという人も多いはずですが、最近は凸版印刷がshufoo!というデジタルチラシ配信サービスをしています。

しかもshufoo!のデジタルチラシは、見た人がどこの部分をクリックしたかも分かるようになっていて、注目された商品はどれかなどのフォローデータも得られる仕掛けになっているのだとか。
こうした広告テクノロジーの最前線にこれまでの方式が全く無力なのがお分かりいただけるでしょうか。
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おまけに新聞メディアの新聞記事自体も、どこの新聞社が書いても同じような記事ばかり。なにしろ地方紙の記事の多くが共同通信からの配信などということになれば、各紙の特徴などありえません。結局yahooで見るか、msnで見るか、googleで見るかの差でしかなくなっているのです。
新聞の有料サイト化も無理。ネット画面の向こうからの支持が得られるほどのメリットを感じている人はごく少数にとどまっています。
では本当に新聞社が潰れてしまったりしたら、新聞記事を提供するコンテンツ自体がなくなってしまうのではないか、という疑問が当然あるでしょう。
なるほど、一見ごもっともな疑問ですが、それへの答えは「報道を行う主体がマスメディアでなければならないなんて誰が言った?」という冷酷なものです。
新聞社に属する記者が書かないのであれば、フリーランスの署名入りの記者がどこかに雇われて記事を配信し始めるという、今と違った新しいビジネスモデルが登場するだけでしょう。アメリカのニューズウィークが既にその路線を取り始めています。アメリカで起こったことは三年後に日本でも起こるといわれています。新聞はもうすぐ消滅するメディアということを運命付けられたようです。
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実際、実家に帰るたびに地元有力地方紙の紙面が薄くなっていることに気がつきます。私自身、もはや新聞を読む時間よりもネットに触れている時間の方がはるかに多く、ネットからは一社だけではなく海外の新聞メディアからも幅広い記事を読める恩恵を【タダで】受けています。
毎日毎日気に入らない記事をなぜお金を払ってまで読んでいるのか。
我が家が新聞を取らなくなる日も近い?
※次回はテレビ編です