紀伊國屋ホール、2022年6月8日18時半。
一昨日、ニューヨークからアメリカ南部の街にやってきた娼婦のリズィー(奈緒)は、ここでの初めての客としてフレッド(風間俊介)と一夜を共にする。明くる朝、突然ドアのベルが鳴る。ためらいながらドアを開けると、背の高い黒人青年(野坂弘)が立っていた。彼はリズィーがこの街へやってくる列車の中で一緒になった黒人青年ふたり組のうちのひとりで、白人グループたちが起こしたゴタゴタに巻き込まれ、ひとりが銃で撃たれ、もうひとりは列車を飛び降りて逃走していたのだ。その逃げた青年が住人たちの目をかいくぐり、リズィーの家を探して現れ、真実を話してほしいと懇願するのだったが…
作/ジャン=ポール・サルトル、翻訳/岩切正一郎、演出/栗山民也。1946年パリ初演、サルトルがシナリオに参加して映画化もされている作品。全1幕。
前季の朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で株を下げる役どころだった風間くんですが、私はわりと好きで、いそいそと出かけてきました。が、またも株が下がるお役でした(笑)。イヤそういう作品だしそういうお役だし、上手かったしいい作品だったし、大満足なんですけれどもね。
サルトルは1944年に十数人のジャーナリストたちとともに招待されてアメリカを訪問していて、黒人差別を目の当たりにし、黒人作家リチャード・ライトにも出会って、この作品が生まれたんだそうです。1931年にスコッツボロ事件と呼ばれる冤罪事件があったことも背景にあったのだろう、とのこと。
「無実の黒人がいる。彼に罪を着せようとする白人の支配者集団がいる。そこに巻き込まれた白人の弱者がいる。リズィーは女性であることによって、そして社会の底辺におり、さらには娼婦という反社会的存在であることで、白人男性の抑圧と搾取の対象となっている」…という構造の物語です。その中で、殺人や性にまつわる嘘と真実が取引される物語です。
リズィーには「嘘をつきたくない、真実を言いたい」というごくまっとうな正義感がありますが、一方でちょっとばかりお人好しというか流されやすいところもあり、残念ながらちょっと愚鈍なところもある女性です。それは要するに人間らしい人間だということです。自分とアメリカを同化して語っちゃう上院議員(金子由之)なんかより断然マシな人間だってことです。自分が性的に溺れ惹かれただけなのにリズィーを「悪魔」「魔女」とか呼んで相手のせいにするフレッドなんかよりも、さらに断然マシな人間です。彼女は正直で、すべてを自分の責任で引き受けて、自分の足で立って生きている。ワシントンと俺おまえだった祖先とか、この街を築き上げた祖父とか、そういうものは要らない人です。もちろん娼婦で、身体を売って食べているんだけれど、彼女の身体は彼女のものなんだし、感じのいい相手にはちゃんと恋心も感じて快楽を享受することもできる、健全で健康的な女性です。やるだけやっておいてなんだかよくわからない罪の意識に苛まれているゲスな小心男のフレッドとは、人間のレベルが違うと言ってもいいでしょう。
もちろん彼もこういう家に生まれてこういう父親のもとで育って、抑圧されているんだろうし、それで偏向した人間になってしまっていることはもしかしたら彼の罪ではないのかもしれません。でももういい大人なんだし、もっと視野を広げることだってできたはずでしょう。でも彼はたとえば一族のリーダーのトーマスしか見ていないのです。残念な生き物なのです。
女は子宮で考える、とかよく言いますよね。男こそ脳味噌が精巣にしかないんだろう、と本当に思わせられます。その自覚があるからこそ、男は女に対してこんなことを言うんですよね。サルトルは男性ですが、そのことがよくわかっていて、男性を批評的に描ける作家なんだと思いました。
もちろんトーマスの母親を思って涙し、黒人青年の母親のことは思いもつかないリズィーは、逆に浅薄で愚かでウェットで感情的な「ザッツ女性」なのでしょう。その駄目さもちゃんと描かれている。でも彼女にそう考えさせる上院議員の邪悪さの方がより際立つ構造だったのでした。
映画版ではラスト、リズィーは「フレッドを置いてきぼりにして、黒人と二人で警察車輌に乗り込み、群衆へ向かって」黒人の無実を叫ぶんだそうです。まあ映画だとそうかもね。戯曲のようなラストは格好がつかないんじゃないかなと思います。でも戯曲の方が断然いいと私は思います。
フレッドは逃げた黒人青年を撃ちますが、弾は外れ、部屋に戻るとリズィーを囲うために用意する屋敷の話をとうとうと語り、やっと名前を名乗ります。リズィーは放心して彼の足もとに座り、彼の腿に手を置いてもたれかかる。それは不思議な形のピエタ像のよう…
結局リズィーは流されて偽の証言に署名してしまったのだし、お金は受け取った形になってしまっているのだし、フレッドに対してある種の愛がないわけでもないわけで、そうした愛人生活も悪くないものなのかもしれないのです。そして黒人青年に対してしてあげられることは、おそらくもう何もない。だから仕方ない、これで手打ちとするのは、いいことなのかもしれない…
だがそこに、彼女の心におそらく最初に火を灯した「恭しい感じ」はあるのでしょうか? 相手に尊重され、大事にされ、敬意を払われ、対等に扱われ、愛されているという感じ…それはフレッドの単なる照れ隠しや、罪悪感の裏返しによる優しさにすぎなかったのかもしれないけれど、少なくともリズィーは恭しいと感じ、それが嬉しくて、心も体も開いたのでしょう。それは人間同士がつながるのには、本当は絶対に必要なものなのです。ただ、それが失われても関係だけが続いていってしまうことはある。そんな末路を思わせるラストこそが、この作品のキモなのではないかしらん。それが男と女、それが人間、ザッツ・ライフ、セ・ラ・ヴィ…みたいな。
良き作品でした。初演から70年、人種差別も女性蔑視も階級格差もなくなっていない現代において、まったく古びていない作品でした。
一点だけ言うとすれば、ラストは幕を下ろしてほしかった…またしても私の大嫌いなパターンでした。暗転で終わるなら、役者には暗転している間に立ち上がってお辞儀する位置に移っていてほしいのです。それで明るくなってカーテンコール、ラインナップとなってほしいのです。まだ芝居が終わったままのポーズ、表情で灯りをつけるのを本当にやめていただきたい…!
兵庫、愛知まで、どうぞご安全に。
一昨日、ニューヨークからアメリカ南部の街にやってきた娼婦のリズィー(奈緒)は、ここでの初めての客としてフレッド(風間俊介)と一夜を共にする。明くる朝、突然ドアのベルが鳴る。ためらいながらドアを開けると、背の高い黒人青年(野坂弘)が立っていた。彼はリズィーがこの街へやってくる列車の中で一緒になった黒人青年ふたり組のうちのひとりで、白人グループたちが起こしたゴタゴタに巻き込まれ、ひとりが銃で撃たれ、もうひとりは列車を飛び降りて逃走していたのだ。その逃げた青年が住人たちの目をかいくぐり、リズィーの家を探して現れ、真実を話してほしいと懇願するのだったが…
作/ジャン=ポール・サルトル、翻訳/岩切正一郎、演出/栗山民也。1946年パリ初演、サルトルがシナリオに参加して映画化もされている作品。全1幕。
前季の朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で株を下げる役どころだった風間くんですが、私はわりと好きで、いそいそと出かけてきました。が、またも株が下がるお役でした(笑)。イヤそういう作品だしそういうお役だし、上手かったしいい作品だったし、大満足なんですけれどもね。
サルトルは1944年に十数人のジャーナリストたちとともに招待されてアメリカを訪問していて、黒人差別を目の当たりにし、黒人作家リチャード・ライトにも出会って、この作品が生まれたんだそうです。1931年にスコッツボロ事件と呼ばれる冤罪事件があったことも背景にあったのだろう、とのこと。
「無実の黒人がいる。彼に罪を着せようとする白人の支配者集団がいる。そこに巻き込まれた白人の弱者がいる。リズィーは女性であることによって、そして社会の底辺におり、さらには娼婦という反社会的存在であることで、白人男性の抑圧と搾取の対象となっている」…という構造の物語です。その中で、殺人や性にまつわる嘘と真実が取引される物語です。
リズィーには「嘘をつきたくない、真実を言いたい」というごくまっとうな正義感がありますが、一方でちょっとばかりお人好しというか流されやすいところもあり、残念ながらちょっと愚鈍なところもある女性です。それは要するに人間らしい人間だということです。自分とアメリカを同化して語っちゃう上院議員(金子由之)なんかより断然マシな人間だってことです。自分が性的に溺れ惹かれただけなのにリズィーを「悪魔」「魔女」とか呼んで相手のせいにするフレッドなんかよりも、さらに断然マシな人間です。彼女は正直で、すべてを自分の責任で引き受けて、自分の足で立って生きている。ワシントンと俺おまえだった祖先とか、この街を築き上げた祖父とか、そういうものは要らない人です。もちろん娼婦で、身体を売って食べているんだけれど、彼女の身体は彼女のものなんだし、感じのいい相手にはちゃんと恋心も感じて快楽を享受することもできる、健全で健康的な女性です。やるだけやっておいてなんだかよくわからない罪の意識に苛まれているゲスな小心男のフレッドとは、人間のレベルが違うと言ってもいいでしょう。
もちろん彼もこういう家に生まれてこういう父親のもとで育って、抑圧されているんだろうし、それで偏向した人間になってしまっていることはもしかしたら彼の罪ではないのかもしれません。でももういい大人なんだし、もっと視野を広げることだってできたはずでしょう。でも彼はたとえば一族のリーダーのトーマスしか見ていないのです。残念な生き物なのです。
女は子宮で考える、とかよく言いますよね。男こそ脳味噌が精巣にしかないんだろう、と本当に思わせられます。その自覚があるからこそ、男は女に対してこんなことを言うんですよね。サルトルは男性ですが、そのことがよくわかっていて、男性を批評的に描ける作家なんだと思いました。
もちろんトーマスの母親を思って涙し、黒人青年の母親のことは思いもつかないリズィーは、逆に浅薄で愚かでウェットで感情的な「ザッツ女性」なのでしょう。その駄目さもちゃんと描かれている。でも彼女にそう考えさせる上院議員の邪悪さの方がより際立つ構造だったのでした。
映画版ではラスト、リズィーは「フレッドを置いてきぼりにして、黒人と二人で警察車輌に乗り込み、群衆へ向かって」黒人の無実を叫ぶんだそうです。まあ映画だとそうかもね。戯曲のようなラストは格好がつかないんじゃないかなと思います。でも戯曲の方が断然いいと私は思います。
フレッドは逃げた黒人青年を撃ちますが、弾は外れ、部屋に戻るとリズィーを囲うために用意する屋敷の話をとうとうと語り、やっと名前を名乗ります。リズィーは放心して彼の足もとに座り、彼の腿に手を置いてもたれかかる。それは不思議な形のピエタ像のよう…
結局リズィーは流されて偽の証言に署名してしまったのだし、お金は受け取った形になってしまっているのだし、フレッドに対してある種の愛がないわけでもないわけで、そうした愛人生活も悪くないものなのかもしれないのです。そして黒人青年に対してしてあげられることは、おそらくもう何もない。だから仕方ない、これで手打ちとするのは、いいことなのかもしれない…
だがそこに、彼女の心におそらく最初に火を灯した「恭しい感じ」はあるのでしょうか? 相手に尊重され、大事にされ、敬意を払われ、対等に扱われ、愛されているという感じ…それはフレッドの単なる照れ隠しや、罪悪感の裏返しによる優しさにすぎなかったのかもしれないけれど、少なくともリズィーは恭しいと感じ、それが嬉しくて、心も体も開いたのでしょう。それは人間同士がつながるのには、本当は絶対に必要なものなのです。ただ、それが失われても関係だけが続いていってしまうことはある。そんな末路を思わせるラストこそが、この作品のキモなのではないかしらん。それが男と女、それが人間、ザッツ・ライフ、セ・ラ・ヴィ…みたいな。
良き作品でした。初演から70年、人種差別も女性蔑視も階級格差もなくなっていない現代において、まったく古びていない作品でした。
一点だけ言うとすれば、ラストは幕を下ろしてほしかった…またしても私の大嫌いなパターンでした。暗転で終わるなら、役者には暗転している間に立ち上がってお辞儀する位置に移っていてほしいのです。それで明るくなってカーテンコール、ラインナップとなってほしいのです。まだ芝居が終わったままのポーズ、表情で灯りをつけるのを本当にやめていただきたい…!
兵庫、愛知まで、どうぞご安全に。
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