激動の時代を生きた11人の物語。『ベルばら』には描けなかった、歴史の真実。
デュ・バリー夫人やマリー・アントワネット、ロラン夫人、リュシル・デムーラン、マリー・テレーズ・ド・フランス…はたまたエオン・ド・ボーモンやジョフラン夫人など、誰?みたいな、そこまで有名ではないような気もする人まで、18世紀を生きた11人の女性の、ごく簡単な評伝集でした。
タレーランは「一八世紀に生きた者でなければ、生きる歓びを知ったことにはならない」という、同時代人ならではの暴言をかましているそうですが(笑)、激動の大革命の前後では世の中もずいぶんと違ったろうことは想像がつきますし、著者ももちろん18世紀を生きてはいないわけですが、情熱や憧憬があふれた筆致で、楽しく読みました。
おそらくゴーストライターを起用しておらず、ちゃんと自分で書いたんだろうな、となんとなく思えました。1985年に出したものを、『ベルばら』50周年の2021年に改訂・再構成して出した新装版だそうで、まあこういう企画って著者の名前だけ出して中身は過去の既存の評伝の抜粋とか百科事典レベルの知識、蘊蓄を並べるだけで作る、ってのはありえそうじゃないですか。でも、文章のある種の硬さや逆にものすごく格調高い部分とかが素人っぽいというか、プロのライターっぽくなくて、そしてやはり池田史観をきっちり反映した文に思えたので、意外にもそういう点をおもしろく読んでしまったのです。評伝としてはやはりかなり食い足りなくて、もっとくわしい専門書を読まないと…という感じは残念ながらありました。
池田史観とはまた違うのかもしれませんが、すごくおもしろいなと思えたのが、著者はフランス大革命の人権宣言の「人間」に女性が含まれていなかったことを、めちゃくちゃ痛烈に、何度も何度も指摘し怒り批判しあげつらっている点です。帯にある「『ベルばら』には描けなかった』というのは、このことなのかもしれません。オスカルは革命に殉じて死に、アントワネットは革命を理解せず反対したまま処刑された物語なので、そもそもその革命も完璧なものではなかったよ、という視点は確かに入れづらかったことでしょう。でも今、『ベルばら』や『1789』、あるいは『MA』でもいいけれど、そうした物語やミュージカルでフランス革命を知っている気でいる人々、特に女性観客・ファンにも、その「人民」に私たち女性は含まれていなかったのだ、ということを知っている、それを意識できている人ってまだまだ少ないんだと思うので、この指摘はとても重要だなと思いました。
「大革命前もそして驚くべき事に大革命後においても、未だ女性に一人前の人間として莉存在を許さない時代でした。ジャン=ジャック・ルソーによってフランス女性たちが生き方を変えられた後でさえ、相変わらず、法律上女性は一生未成年のままであり、従って女性に対して権力を与える事は禁じられており、結婚まで父親の後見の下にあった女性が結婚後は夫の後見に委ねられるという、ただそれだけの存在に過ぎなかったのです」、ですよ。この権力って要するに人権のことですからね。250年がすぎようというのに未だ怪しいのが情けなくもありますが、それはまた別のこととして、あんなにも輝かしい、素晴らしい、画期的に思えた人民革命、人権宣言にも実はこんなにも大きな穴があり、もちろん当時もそれに異を唱えた女性もいただろうけれどその声は踏みつぶされたのだ…という事実は、きちんと認識しておく必要があるな、と思えました。
この手の指摘が手を変え品を変え何度も出てくる本で、その執拗さ、真面目さは本当に貴重だと思えました。読めてよかったです。
ところでそれとは別に、今なら「キュリー夫人って言うな、マリー・キュリーと言え」みたいな指摘も出来るのですが、そのあたりはやはりまだこの本は駄目で、章タイトルはおろか本文にも「~夫人」だけでその女性のフルネームが出てこない章があります。それは残念ですが、しかし欧米における、クリスチャンネームやセカンドネーム以下がうじゃうじゃあるような文化におけるいわゆるファーストネームって、どこに重きがあるのかは私には謎です…たとえば今回の雪組の『ベルサイユのばら フェルゼン編』にもあった
「マリーと呼んでください」
「マリー…アントワネット!」
「フェルゼン!」
って会話、マジでホント謎なのです。マリーと呼んでくれ、と言われて何故アントワネットまで付けるのか? 彼女は相手をハンスと呼ばなくていいのか? 『1789』では「アクセル」と呼んでいましたが、マリー・アントワネットも名前をどれかひとつと言われたらアントワネットと称されることが多い気がします。でもそれは単にマリーやハンスだと他にたくさんいるから? でもアントワネットもアクセルも彼ら固有の名前というわけではなくて、他にもこの名を持つ人はたくさんいるんでしょう? だいたいがみんな聖書の聖人の名前由来だったりするんでしょうし…選択的夫婦別姓の議論が全然進まない(というか壺議員だけが反対している)のを見るだに、名前にアイデンティティを見ることの重要性を考えさせられますが、一方で名前なんて単なる記号だろう、とも考えられるわけで、このこだわり、あるいはこだわりのなさってなんなんだろう…とかつい考えてししまうのでした。
以上、脱線です。ともあれ読みやすい本で、でも含蓄もあり、興味がある方にはオススメです。物語のタネもこのあたりにまだまだあるな、とも思えました。楽しい読書でした。
デュ・バリー夫人やマリー・アントワネット、ロラン夫人、リュシル・デムーラン、マリー・テレーズ・ド・フランス…はたまたエオン・ド・ボーモンやジョフラン夫人など、誰?みたいな、そこまで有名ではないような気もする人まで、18世紀を生きた11人の女性の、ごく簡単な評伝集でした。
タレーランは「一八世紀に生きた者でなければ、生きる歓びを知ったことにはならない」という、同時代人ならではの暴言をかましているそうですが(笑)、激動の大革命の前後では世の中もずいぶんと違ったろうことは想像がつきますし、著者ももちろん18世紀を生きてはいないわけですが、情熱や憧憬があふれた筆致で、楽しく読みました。
おそらくゴーストライターを起用しておらず、ちゃんと自分で書いたんだろうな、となんとなく思えました。1985年に出したものを、『ベルばら』50周年の2021年に改訂・再構成して出した新装版だそうで、まあこういう企画って著者の名前だけ出して中身は過去の既存の評伝の抜粋とか百科事典レベルの知識、蘊蓄を並べるだけで作る、ってのはありえそうじゃないですか。でも、文章のある種の硬さや逆にものすごく格調高い部分とかが素人っぽいというか、プロのライターっぽくなくて、そしてやはり池田史観をきっちり反映した文に思えたので、意外にもそういう点をおもしろく読んでしまったのです。評伝としてはやはりかなり食い足りなくて、もっとくわしい専門書を読まないと…という感じは残念ながらありました。
池田史観とはまた違うのかもしれませんが、すごくおもしろいなと思えたのが、著者はフランス大革命の人権宣言の「人間」に女性が含まれていなかったことを、めちゃくちゃ痛烈に、何度も何度も指摘し怒り批判しあげつらっている点です。帯にある「『ベルばら』には描けなかった』というのは、このことなのかもしれません。オスカルは革命に殉じて死に、アントワネットは革命を理解せず反対したまま処刑された物語なので、そもそもその革命も完璧なものではなかったよ、という視点は確かに入れづらかったことでしょう。でも今、『ベルばら』や『1789』、あるいは『MA』でもいいけれど、そうした物語やミュージカルでフランス革命を知っている気でいる人々、特に女性観客・ファンにも、その「人民」に私たち女性は含まれていなかったのだ、ということを知っている、それを意識できている人ってまだまだ少ないんだと思うので、この指摘はとても重要だなと思いました。
「大革命前もそして驚くべき事に大革命後においても、未だ女性に一人前の人間として莉存在を許さない時代でした。ジャン=ジャック・ルソーによってフランス女性たちが生き方を変えられた後でさえ、相変わらず、法律上女性は一生未成年のままであり、従って女性に対して権力を与える事は禁じられており、結婚まで父親の後見の下にあった女性が結婚後は夫の後見に委ねられるという、ただそれだけの存在に過ぎなかったのです」、ですよ。この権力って要するに人権のことですからね。250年がすぎようというのに未だ怪しいのが情けなくもありますが、それはまた別のこととして、あんなにも輝かしい、素晴らしい、画期的に思えた人民革命、人権宣言にも実はこんなにも大きな穴があり、もちろん当時もそれに異を唱えた女性もいただろうけれどその声は踏みつぶされたのだ…という事実は、きちんと認識しておく必要があるな、と思えました。
この手の指摘が手を変え品を変え何度も出てくる本で、その執拗さ、真面目さは本当に貴重だと思えました。読めてよかったです。
ところでそれとは別に、今なら「キュリー夫人って言うな、マリー・キュリーと言え」みたいな指摘も出来るのですが、そのあたりはやはりまだこの本は駄目で、章タイトルはおろか本文にも「~夫人」だけでその女性のフルネームが出てこない章があります。それは残念ですが、しかし欧米における、クリスチャンネームやセカンドネーム以下がうじゃうじゃあるような文化におけるいわゆるファーストネームって、どこに重きがあるのかは私には謎です…たとえば今回の雪組の『ベルサイユのばら フェルゼン編』にもあった
「マリーと呼んでください」
「マリー…アントワネット!」
「フェルゼン!」
って会話、マジでホント謎なのです。マリーと呼んでくれ、と言われて何故アントワネットまで付けるのか? 彼女は相手をハンスと呼ばなくていいのか? 『1789』では「アクセル」と呼んでいましたが、マリー・アントワネットも名前をどれかひとつと言われたらアントワネットと称されることが多い気がします。でもそれは単にマリーやハンスだと他にたくさんいるから? でもアントワネットもアクセルも彼ら固有の名前というわけではなくて、他にもこの名を持つ人はたくさんいるんでしょう? だいたいがみんな聖書の聖人の名前由来だったりするんでしょうし…選択的夫婦別姓の議論が全然進まない(というか壺議員だけが反対している)のを見るだに、名前にアイデンティティを見ることの重要性を考えさせられますが、一方で名前なんて単なる記号だろう、とも考えられるわけで、このこだわり、あるいはこだわりのなさってなんなんだろう…とかつい考えてししまうのでした。
以上、脱線です。ともあれ読みやすい本で、でも含蓄もあり、興味がある方にはオススメです。物語のタネもこのあたりにまだまだあるな、とも思えました。楽しい読書でした。
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